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記事: 関東の伝統工芸品12選、その土地の素材や特色を活かした品々

関東の伝統工芸品12選、その土地の素材や特色を活かした品々
#伝統工芸の旅

関東の伝統工芸品12選、その土地の素材や特色を活かした品々

日本には経済産業省が指定した「伝統的工芸品」というものがありますが、それ以外にも地域に根付いた工芸品は数多くあります。今回はそんな中でも、世界的にも人気の高い「関東の伝統工芸品」を紹介していきます。

 

江戸切子(東京)

江戸切子とは、東京都で作られるカットガラスのことです。江戸切子の特徴は、ガラスの表面に切込みを入れて施す美しい模様にあります。「魚子(ななこ)文様」や「麻の葉文様」などの日本の伝統文様を施したものさまざまなデザインがあり、江戸切子伝統の文様「菊繋ぎ」は輝きが美しく、人気があります。江戸切子は、繊細な文様に光が反射することで生まれる、美しい煌めきが大きな魅力です。

底に魚子模様が施された江戸切子

江戸切子「向日葵」


菊つなぎと青海波、吉祥紋の組み合わせが美しいデザイン「漣」
江戸切子「漣」

 

江戸切子は、江戸時代後期に江戸のビードロ屋・加賀屋久兵衛が金剛砂を用いて、ガラスの表面に細工を施したのが始まりとされております。明治時代には、イギリスのカットグラスから技術を学び、現在の江戸切子の技法が確立されました。

当初は、透明なガラスに切子を施すのが主流でしたが、現在は透明がガラスに色付きのガラスを溶着させ、切子を施した「色被せガラス」が主流に変化しました。大正時代には、器やグラス、ランプシェードなど、さまざまな製品が開発され、日本全国に流通したことで、江戸切子が普及しました。

現在では伝統的な技術を革新的な方法で用いた、ユニークな商品も製造しています。精密に削り出された模様が、食卓を美しく彩る江戸切子は、日本を代表する工芸品へと発展しました。


「江戸切子」について詳しく見る

 

江戸硝子(東京)


江戸硝子とは、旧江戸地域(現在の東京地方)で発展した技術を受け継ぎ、ひとつひとつ手作りで製造されるガラス製品のこと。その起源は18世紀はじめの江戸時代。いまの東京・日本橋や浅草で、鏡や風鈴などの日用品の生産がきっかけと言われています。職人の手により作られる江戸硝子は、工業製品にはない独特の風合いが魅力です。

前述の江戸切子と混同してしまいますが、「江戸硝子」はガラスそのものを指し、一方の「江戸切子」は、ガラスに装飾を施す独自の加工法、または加工した製品のことを意味しています。つまり、「江戸硝子」に切子を入れたものが「江戸切子」であり、江戸切子の職人の中には、「江戸硝子」の製造から「江戸切子」の加工を施す、二つの技術を有する場合も多いそう。

江戸硝子は「宙吹き」「型吹き」「押し型」の3つの製法で作られ、いずれも職人の熟練の技が問われる技法です。江戸時代から変わらない原材料を使い、高い技術で薄く、透き通るガラスの世界を作り続けています。

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東京銀器(東京)

東京に銀のイメージはあまりないかもしれませんが、もともと江戸時代に東京の銀座は銀貨の鋳造場として発展しました。その後、製造技術が帯止めやかんざしにも応用され、銀器の製造が盛んになった背景があります。

「鍛金」である東京銀器は、銀ののべ板を鉄床(かなとこ)にあて、金槌で細かく打つことで形を作っていきます。途中で材料を足したり、取り除いたりすることができない鍛金は、叩く強さや場所で厚みや形をミリ単位で調整して、思う形に整える、非常に高い技術が求められます。金槌で叩いた跡は「槌目」として残り、表面の装飾になると同時に、職人が正確な力加減とコントロールで何度も金槌を振り下ろした証として、その技術の高さを示しています。

>東京銀器12代継承者、上川宗達さんの新しい挑戦

 

 

 

江戸節句人形(東京)


もともと、五月の節句に人形を飾る文化が生まれたのは江戸時代。初陣を飾る長男に鎧を仕立てるという文化に憧れた町人たちが、自分たちの子供にも甲冑を、と始めたのだといわれています。

 

甲冑づくりは総合工芸。金工、革細工、組紐などそれぞれに高い技術が必要で、一人で全てを作ることはできません。専門の職人が、分業でいろいろな部品を作り、それをくみ上げていくものです。大きな五月人形が売れなくなっていく時代、部品を作る職人は少しずつ減っており、作り手はニーズの変化に対応しながら技術を守っていかなければならない状況にあります。しかし、そのような逆境の中で様々なアイデアが生まれ、新たな魅力の詰まった現代の節句人形が作られています。

>江戸節句人形 鈴甲子のページへ

 

 

 

江戸木目込人形(東京)

江戸木目込み人形の招き猫


江戸木目込は、古来、木彫りの胴に裂張りという技法で作られていましたが、明治頃からは、桐の粉末に糊をまぜて作った粘土「桐塑(そうそ)」を使って胴体を作る技法に変わっています。桐塑で形作った胴体に細い溝を彫り、衣装となる布地を木目込んで、華やかな色合いの人形に仕上げます。

現代では、人形のモチーフや木目込む布の柄・素材も多様化し、ユニークな商品が数多く生み出されています。

>江戸木目込人形 柿沼人形のページへ

 

小田原漆器(神奈川)


小田原漆器とは、神奈川県小田原市を中心に作られる漆器のことです。小田原漆器の特徴は、木地の木目をそのまま生かした自然模様と、艶のある漆塗りにあります。

 

小田原漆器は、室町時代中期に箱根系の良質な木材を利用して作った挽物の器に漆を塗ったのが始まりとされています。その後、戦国時代に北条氏が小田原漆器の技術の発展を図ったことで、「色漆塗り(いろうるしぬり)」の技法が取り入れられました。

現在、小田原漆器は、日用品としてだけでなく、結婚式の引き出物やプレゼントなど、贈り物としても人気があります。古くから生活用品として親しまれてきた小田原漆器は、今も変わらず人々の生活に馴染む工芸品として、多くの人から愛用されています。

薗部産業(小田原漆器)のページへ

 

笠間焼(茨城)

笠間焼は、茨城県笠間市周辺を産地とする陶磁器です。笠間焼のほとんどは、個人の作家が制作しております。そのため「笠間焼は特徴がないのが特徴」と言われ、作家の自由な表現で作られた独創的な作品が多いのが、笠間焼の大きな魅力です。

笠間焼は、関東で最も歴史のある焼き物の産地として知られており、起源は江戸時代にまで遡ります。江戸時代に箱田村の名主であった久野半右衛門道延に、信楽焼の陶工、長右衛門が陶器の指導をしたのが笠間焼の始まりとされています。

その後、笠間焼の技術が全国に広がったことで、益子焼をはじめ、多くの焼き物が笠間焼に影響を受けました。

歴史のある笠間焼ですが、古い慣習やしきたりはほとんどありません。笠間は職人の育成に力を入れており、今では職人をめざす多くの若者が笠間に集まります。

そのため、これまでの伝統や慣習にとらわれない、全く新しい発想が笠間焼の魅力です。笠間焼は、おしゃれでモダンなデザインなものが多く、若者からも人気があります。

 

結城紬(茨城)

結城紬は、茨城県結城市や栃木県小山市を中心に、鬼怒川沿い一帯で作られている絹織物です。結城紬のなかでも、「本場結城紬」と呼ばれるものは、ユネスコ無形文化遺産に登録され、日本を代表する高級絹織物のひとつです。

結城紬は、ふんわりとした柔らかい手触りで、軽くて温かいのが特徴です。結城紬の歴史は、奈良時代にまで遡ると言われています。奈良時代に常陸国から朝廷に献上されていた絹織物が、結城紬の起源です。

江戸時代に入ると、幕府の代官、伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)が、結城紬の振興や改良に尽力したことがきっかけで、結城紬が全国的に有名になりました。

結城紬は、丈夫で長持ちし、経年変化によって美しくなることから「三代に渡って着れる絹織物」として親しまれています。上質な糸で紡がれるため、非常に高価な絹織物ですが、一生使える着物として、着物好きから愛されています。

 

益子焼(栃木)

益子焼の皿

益子焼とは、栃木県芳賀郡益子町周辺を産地とする陶器のことです。益子焼の特徴は、ふっくらとした、温かい印象のある「土の質感」にあります。益子地域で取れる陶土は、砂気が多く気泡を多く含んでいるため、肉厚でぽってりとした印象の作品ができあがります。そのシンプルでありながら、自然のあたたかさを感じるデザインが益子焼の魅力のひとつです。

説明したように、益子焼の起源は笠間焼にあります。江戸時代に笠間焼の職人、大塚啓三郎が益子町で焼き物に適した陶土を発見し、窯を開いたのが益子焼の始まりとされています。

明治時代以降は需要が減少したことで、益子焼は一時衰退しましたが、大正13年に起こった「民藝運動」や人間国宝・濱田庄司の活躍により、今では世界中から多くの職人が集まるようになりました。

現在、益子焼は、生活に寄り添う器として、若い人からも人気があります。年2回開催される益子焼の陶器市は、合計60万人以上の人が集まります。益子焼の陶器市には、毎年たくさんの作家が出展し、作家のファンが作品を求めて全国から訪れます。

素朴でふっくらとしたあたたかさと、作家の独創的な表現が相まって生まれる唯一無二の雰囲気が人々を魅了する焼き物です。

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小川和紙(埼玉)

小川和紙とは、埼玉県比企郡小川町を中心に発展した手漉き和紙のことです。小川和紙のなかでも、素朴で独特な風合いのある「細川紙」は、国の重要無形文化財に指定されております。

小川町で和紙の製造が始まったのは、今から約1300年以上も前だと言われております。奈良の正倉院文書によれば、774年に「武蔵国紙四八〇帳」の紙が納められていたとあることから、当時はすでに和紙の製造が行われていたことがわかります。

その後、江戸時代に入ると、日本の中心だった江戸から近かったこともあり、需要が高く、産業としても大きく発展しました。

現在は、無地のものから染め紙まで、さまざまな種類の手漉き和紙を製造しています。障子や行灯などに用いられることが多く、丈夫で厚みのある小川和紙で包み込む光は、落ち着いた、心温まる空間を提供します。

 

房州うちわ(千葉)

房州うちわは、千葉県館山市・南房総市周辺で作られているうちわのことです。房州うちわは、丸亀うちわ(香川県)・京うちわ(京都府)に並ぶ「日本三大うちわ」のひとつとして数えられています。

房州うちわは、64等分に割いた骨を糸で編んで作る半円の「窓」と呼ばれる部分に現れる、美しい格子模様が特徴です。

房州うちわは、明治時代に入ってから生産が開始されたとされています。具体的な時期と起源に関しては、明治10年に那古町(現在の館山市)で始まった説と明治17年に岩城惣五郎が東京から職人を雇い、うちわの生産を始めた説があります。

その後、大正10年に東京日本橋の問屋が、船形町(現在の館山市船形)に移転し、生産を始めたことで、産業が一気に拡大しました。

平成15年には、経済産業省指定の「伝統的工芸品」に認定。エアコンや扇風機の普及により、実用品としては使われなくなりましたが、現在は装飾品としての魅力を見出し、浮世絵や美人画などの絵を施すことで、海外からも人気があります。

 

箱根寄木細工(神奈川)

箱根寄木細工は、神奈川県箱根町で作られる木工品のことです。箱根寄木細工の特徴は、自然の木の色をそのまま生かした色合いと、木を寄せ集めて作る精密な幾何学模様にあります。

江戸時代後期、箱根町畑宿の石川仁兵衛が、箱根山の木の色や木目の違う木材を寄せ集めて作ったのが、箱根寄木細工の始まりとされています。当初は簡単な模様が主流でしたが、明治時代に静岡方面の寄木細工の技法が伝わったことで、今の複雑な幾何学模様が完成しました。

箱根寄木細工を代表する製品「秘密箱」は、精密に表現された美しい模様とユニークな発想で、全国に名を轟かせました。今では、コースターやティッシュケース、お盆など、さまざま種類の製品があります。日本でも特に人気の箱根寄木細工は、まさに日本の手仕事の精密さが表現された逸品です。

 

伝統工芸品で産地を旅する

関東7都県の伝統工芸品を紹介しました。どの伝統工芸品も産地の特色を活かし、その地域ならではの発展を遂げてきました。そんな伝統工芸品からは、その産地の雰囲気や温度が伝わってきます。

普段の生活に工芸品を取り入れることで、自宅から産地の素材や風合いを楽しんでみてはいかがでしょうか。

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