北陸地方の伝統工芸品12選。文化に触れる。
石川県のひがし茶屋街や福井県の一乗谷朝倉氏遺跡など、北陸地方には歴史や日本文化を堪能できる観光地がたくさんあります。今回は、豪華絢爛な文化が花開き、数多くの工芸品が発展した、北陸地方の伝統工芸品を紹介します。
目次
九谷焼(石川)
九谷焼とは、石川県金沢市一帯で作られる陶磁器のこと。九谷焼は、「上絵付け」と呼ばれる技法により表現される豪快で色彩豊かな模様が特徴。上絵付けとは、本焼きした陶磁器の釉薬の上に顔料で模様を描き、再び高温で焼き上げる技法のこと。九谷焼は赤・黄・緑・紫・紺青の5色の絵の具によって描かれる山水や花鳥などの絵画的な柄が代表的です。
九谷焼は、1655年に大聖寺藩の初代藩主の前田利治が、有田で陶技を学んでいた後藤才次郎に有田村で開窯させたのが始まりとされています。しかし、後藤才次郎の窯はわずか100年で閉窯。閉窯の理由は明確になっていませんが、この期間に焼かれたものを「古九谷」と呼んでいます。閉窯から100年後、加賀藩が陶磁器の製造を奨励したことにより、古九谷再興の動きが始まり、再び九谷焼が作られるようになりました。その後、文人画家の青木木米や豪商の吉田屋伝右衛門などの活躍により、現在のような九谷焼が誕生しました。
現在、九谷焼はその色彩の多さを活かして、アニメとのコラボ商品を数多く販売。機動戦士ガンダムやドラえもん、ウルトラマンなど、世界的に有名な日本アニメとコラボレーションすることで、日本だけでなく海外からも注目を集めています。
山中漆器(石川)
山中漆器とは、石川県加賀市で作られる漆器のこと。山中漆器は、優れた木地挽物技術が特徴で、自然の木目をそのまま活かしたデザインと優美な蒔絵が魅力のひとつ。石川県には3つの漆器産地があり、それぞれの特徴から「木地の山中」「塗りの輪島」「蒔絵の金沢」と言われています。
山中漆器の誕生は、今から約400年前。安土桃山時代に木地師の集団が、上質な材料を求めて移住してきたのが山中漆器の起源と言われています。木地師の集団は、山中温泉上流の真砂という集落に定着し、ろくろ挽きを開始。ろくろ挽きで作られる椀や盆などは、山中温泉に訪れる湯治客のお土産として人気がありました。江戸時代に入ると、京都や会津から塗りや蒔絵の技術が導入され、現代の山中漆器の基礎が築かれます。
現在は、天然木に漆を塗って仕上げる伝統的な「木製漆器」だけでなく、ウレタン塗装をしたプラスチック素材の「近代漆器」も開発。低単価で普段使いしやすい近代漆器が誕生したことで、多くの人が気軽に使えるようになり、漆器を魅力を身近に感じられるようになりました。
輪島塗(石川)
輪島塗とは、日本の石川県輪島市周辺で伝承される、漆を使った塗り物技術のこと。先述の「木地の山中」に対して、「塗りの輪島」と称される、精度の高い塗りが特徴です。高い技術力と品質により、輪島塗製品は美術工芸品や家具、建築材料などに幅広く用いられており、高い評価を得ています。
漆は、縄文時代から人類が使い続けてきた貴重な素材で、その優れた特性は一万年以上経っても変わらずに現代まで受け継がれています。また、その塗り技術は石川県輪島市で代々伝承され、丈夫で美しく、修理も容易な「輪島塗」という素晴らしい技術が生まれました。 「輪島塗」という名を冠する製品は、約120の独自の工程を経て作られます。そして加飾の工程に分かれ、職人たちが分業することでそれぞれの技術を最大限に引き出すことができ、高品質な輪島塗製品が完成します。
特に、ノミで塗の表面を彫刻する技法「沈金」は、輪島は他の産地よりも深さ・秘密さがあり、人間国宝、芸術院会員の両最高峰を輩出しています。
>輪島塗について詳しく見る
金沢箔(石川)
金沢箔は、文禄2年(1593年)に加賀藩初代藩主前田利家によって製造が命じられ、その後加賀藩の美術工芸振興策により箔の製造が奨励されました。元禄9年(1696年)には江戸幕府が箔の製造を江戸・京都以外で禁止しましたが、加賀藩の庇護のもとで密かに製造が続けられ、元治元年(1864年)には藩の御用箔の製造が許可され、金沢箔は質・量ともに大きく発展しました。
藩政の崩壊に伴い箔の統制がなくなり、江戸箔に代わって金沢箔が品質の良さで市場を独占し、現在では全国生産の99%以上を占めています。金沢箔の特色は、純金に微量の銀や銅を加えた合金を使用し、1万分の1ミリ程度の厚さまで均一に広げる技術です。
金沢箔は工芸材料として広く利用されており、仏壇・仏具、水引や西陣織などの金銀糸、漆器の沈金や蒔絵、陶磁器の絵付けに使用されています。その高い品質と幅広い用途により、金沢箔は日本全国で不動の地位を築いています。
加賀友禅(石川)
加賀友禅とは、石川県金沢市で作られる染織物のこと。加賀友禅は、落ち着きのある写実的な草花模様が特徴で、絵画のような美しさがあります。加賀友禅は、「加賀五彩」と呼ばれ、藍、臙脂(えんじ)、黄土、草、古代紫の5色を基調していることや、あえて虫食い葉を描く「虫食い」の技法、外側から中心にむかってぼかす「ぼかし」の技法によって、絵画のような模様が表現されます。
加賀友禅は、今から約500年前に存在していた「梅染」の技法にまで遡ります。また17世紀中頃には、兼房染や色絵・色絵紋の技法が確立され、「加賀の御国染」と呼ばれていました。江戸時代中期に、京都の宮崎友禅斉が、これらの技法をベースに加賀友禅の技術を発展させたと言われています。
近年、友禅染の多くの産地が技法を合理化するなかで、加賀友禅はあくまで手作りにこだわり、多くの工程を手作業でおこなっています。
金沢仏壇(石川)
金沢仏壇とは、石川県金沢市で作られる仏壇のこと。金沢仏壇は、蒔絵や彫刻の技術の高さと金沢の良質な金箔をふんだんに使った豪華さから、美術工芸品として高く評価されています。
金沢仏壇の歴史は17世紀にまで遡ります。加賀藩2代目藩主の前田利常が大阪や京都から多くの職人を招き、細工所を築いて美術工芸品の制作を開始しました。その後、徳川幕府の宗門改にのっとって、加賀藩が各家庭に仏壇を持つように勧めたことで仏壇の需要が急増。また、当時加賀藩は加賀百万石と呼ばれるほど豊富に財力があったので、現在のような豪華絢爛な加賀仏壇が作られるようになりました。
室町時代に蓮如上人という浄土真宗の僧侶が北陸地方で普及したため、もともと北陸地方には浄土真宗を信仰している人が多く、仏壇の需要が高かったことも、金沢仏壇が発展した大きな理由です。
現在も金沢仏壇は、木地師、宮殿師、木地彫師、金具師、塗師、蒔絵師、箔彫師などの職人が手作業で丁寧に作っています。金箔や蒔絵などの華やかさのなかに、手作りの温かさを感じられる仏壇です。
越前焼(福井)
越前焼とは、福井県福井市、あわら市、丹生郡越前町などで作られる陶磁器のこと。越前焼は、「六古窯」と呼ばれ、平安から鎌倉時代に始まった歴史ある焼き物のひとつに数えられます。越前焼の特徴である、土の温かさを感じられる素朴な風合いは、薪の灰がかかり溶けて自然の釉薬となる「自然釉」などの技法によって表現されます。また、越前焼に用いられる土には鉄分が多く含まれ、耐久性に優れているので、日用品としても人気が高いです。
越前焼の歴史は古く、800年以上前の平安時代末期にまで遡ります。もともとは須恵器の製造を主におこなっていましたが、常滑(愛知県)の技術を導入したことで、釉薬をかけずに高温で焼いた、焼き締め陶の製造が始まりました。当時は、壺・甕・すり鉢など日用雑器をメインに製造していました。その後、安土桃山時代に入ると、茶道が誕生したことで茶器の需要が拡大。しかし、越前焼は変わらず生活雑器を作り続けていたことで、一時は衰退の一途をたどりました。
その後、1942年、東洋陶磁研究の第一人者・故小山冨士夫さんが越前焼の古窯跡調査をおこなったことで、越前焼の歴史的価値が見直され、瀬戸、常滑、信楽、丹波、備前とともに『日本六古窯』の1つに位置付けられました。
今では若い職人も多くなり、現代風にアレンジした作品も多くなっています。
越前漆器(福井)
越前漆器とは、福井県福井市、鯖江市、越前市を産地とする漆器のこと。越前漆器は、漆を塗り重ねることで生まれる上品で落ち着いた光沢と、丈夫で使いやすい実用性が特徴。越前漆器はその使いやすさが評価され、今では業務用漆器の国内シェア80%以上を誇ります。
越前漆器の歴史は、今から約1500年前にまで遡ります。古墳時代末期に後の第26代継体天皇が片山集落(現在の福井県鯖江市)の塗師に冠の修理を命じました。塗師は漆で冠を修理し、さらに黒塗の椀を一緒に献上したところ、その出来栄えに感動した天皇が漆器作りを奨励したのが、越前漆器の始まりとされています。
山林に囲まれ豊富な資源があった越前には、古くから漆の木から樹液を採取する職人が多く存在し、全盛期には全国の漆掻きの約半数が越前の人だったと言われています。その後、江戸時代に入ると、京都から蒔絵、輪島から沈金の技術が導入され、実用性に優れていた越前漆器に華やかさが加わりました。
江戸時代までは、椀や盆など「丸物」と呼ばれる製品を中心に作っていましたが、明治時代には盆、重箱など「角物」も作られるようになりました。現在は、新しい技術や機械の導入によって大量生産が可能になり、業務用漆器の産地として名を馳せています。
越前和紙(福井)
越前和紙とは、福井県越前市を中心に作られている和紙のこと。越前和紙は、その用途によって原料が異なり、楮を用いた書道用和紙や三椏を用いた襖紙など、高い品質と種類の幅広さが特徴です。
越前和紙は、海外から日本に紙が伝来した1500年前にはすでに、現在の福井県越前地方の岡太川流域で生産されていたと考えられています。奈良時代には写経用和紙として和紙が使われていました。その後、武士が紙を大量に消費するようになったことで、技術・生産量ともに向上し、産業として大きく発展。江戸時代には、福井藩の藩札として紙幣にも用いられるようになりました。
今では多くの芸術家たちから愛用され、便箋や名刺などの日用品から格式高い高級和紙まで、幅広い種類の和紙を製造しています。
高岡漆器(富山)
高岡漆器とは、富山県の高岡市で作られる漆器のこと。高岡漆器は、伝統的な技法によって表現される文様と、文様をより際立たせる漆塗りが特徴。
高岡漆器には「勇助塗」「彫刻塗」「青貝塗」の代表的な3つの技法があります。
勇助塗
花鳥、山水、人物などの錆絵が描かれており、青貝、玉石、箔絵などを施した、赤を基調した唐(中国)風の作品。
彫刻塗
素地の表面に朱や黒の漆を塗り重ねて、雷文や亀甲の地紋を表し、その上から草花や鳥獣、青海波、牡丹、孔雀などを彫り出した作品。
青貝塗
「鮑」「夜光貝」「蝶貝」「孔雀貝」などの貝を薄く削り、ひし形や三角に加工し、これらを組み合わせて三水や花鳥などを表現した作品。一般的に貝殻の厚さは0.3mmですが、高岡漆器では0.1mmの貝殻も使用します。ごく薄い貝殻を使用することで、下地の漆が透けて青く光って見えるのが特徴です。
高岡漆器は、江戸時代初期に加賀藩初代藩主の前田利長が高岡城を築き、全国各地から職人を招いて、武具や仏壇、箪笥などを作らせたのが始まりと言われています。その後も文化の発展とともに技術も大きく進化。数多くの名工が誕生し、名工によって勇助塗や青貝塗などのさまざまな技法が開発されました。
高岡銅器(富山)
高岡銅器とは、富山県高岡市を産地とする金工品のこと。高岡銅器は、銅器の国内シェア90%以上を占めており、学校の銅像や、大仏、除夜の鐘などのほとんどが高岡で製造されています。高岡銅器は、小物から大仏まである種類の多さと、さまざまな大きさの製品を加工する技術の高さが特徴です。
高岡銅器も高岡漆器同様の歴史的背景から生まれました。江戸時代初期に加賀藩主の前田利長が高岡城を築き、城下の発展のために7人の鋳物師を高岡に招いたのが、高岡銅器の始まりとされています。当初は、農具や生活用品などの鉄鋳物を中心に製造していましたが、江戸時代中期に入ると、大仏や鐘などの銅器も作られるようになりました。
明治時代には、パリやウィーンなどの万国博覧会に出展したことで、高岡銅器の名が世界に知れ渡り、今では日本屈指の産地となりました。
越中和紙(富山)
越中和紙とは、富山県下新川郡朝日町、富山市、南砺市で作られる和紙のこと。越中和紙は、下新川郡朝日町の蛭谷紙、富山市の八尾和紙、南砺市の五箇山和紙を総称した和紙のことを指します。これらはそれぞれ特徴が異なり、越中和紙は、産地によって多種多様な種類があります。
越中和紙の起源は、産地によって異なります。まず、下新川郡朝日町の蛭谷紙は、1688~1704に書かれた書物に、蛭谷村「中折紙少々漉申候」と記されていることから、その頃にはすでに製造されていたのがわかります。
南砺市の五箇山和紙の製造がいつから始まったかは定かではありません。しかし、江戸時代の公文書に五箇山和紙に関する記録が残っていることや、年貢として和紙が納められていたことから、17世紀〜19世紀にはすでに製造されていました。
八尾和紙の発展は17世紀。1688~1704年に富山二代藩主前田正甫が売薬を奨励したことで、薬の袋や、薬の配置先を記録する懸場帳が使われるようになり、和紙が活発に製造されるようになりました。
越中和紙は、全国的にも若い職人が多く、伝統的な和紙だけでなくモダンなデザインの製品を製造するなど、新しい取り組みにも積極的に取り組んでいます。
伝統工芸品を通して文化や歴史に触れる
北陸地方では多くの文化が花開き、時代とともに変化してきました。人々の生活に近いところで親しまれてきた伝統工芸品は、当時の文化や生活が色濃く反映されています。
伝統工芸品を通して当時の人々の生活を想像してみたり、何百年後も同じ工芸品が使われている未来を思い描いてみるのも伝統工芸品の楽しみ方のひとつです。
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