ガラス工芸品、「びーどろ」と「ぎやまん」の違いはなに?
ガラス製の伝統工芸を表すときによく聞く「びーどろ」と「ぎやまん」。歴史あるガラス製品なのはわかるけれど、違いは説明できない・・・という方も多いかと思います。今回は、「びーどろ」と「ぎやまん」の違い、その歴史の成り立ちについて紐解いてみましょう。
日本のガラス工芸の歴史
キラキラと輝くガラスは、その美しさから始めはガラス玉などの装飾品としてつくられるようになりました。次第に神具や仏具などにも使われ、やがて庶民の愛する器となっていきました。
縄文期に始まる日本のガラスの歴史
少し前まで日本でガラスの歴史が始まったのは、弥生時代とされてきました。しかし最近縄文後期の三内丸山遺跡、亀ヶ岡遺跡(どちらも青森県)などからガラス玉が発見され、日本のガラスの歴史が縄文時代に始まったことがわかってきました。
しかし、これらが日本で作られたものだったかは不明。日本で最も古くガラスが作られていたことが証明されたのは、7世紀後半です。飛鳥池遺跡(奈良県)から緑や青、紺などのカラフルなガラス玉とともに、原料となる鉛・石英のほか、ガラスを溶かす坩堝(るつぼ)などの製造物も発見されました。
平安時代に作られた有名なガラス工芸は、春日大社の瑠璃灯篭。瑠璃色のガラスが灯篭にはめ込まれ、火を入れると美しく輝きます。しかし鎌倉時代になると、日本のガラスの記録はほぼ途絶えてしまいました。ガラスの製造方法が途絶えていたのではないかといわれています。
キリスト教と共に伝わった海外のガラス製造技術
再度ガラスが日本の歴史に登場するのは戦国時代後期、16世紀のこと。ポルトガル・スペインなどの南蛮船の渡来がきっかけとなりました。宣教師ザビエルはガラスの器や眼鏡などを大内義隆に、同じく宣教師のフロイスは金平糖入りのガラス瓶を織田信長に寄進したという記録が残っています。
オランダとの貿易が始まると、ヨーロッパのガラスが輸入されるようになりました。木や土でできた器しか見たことのない当時の日本人にとって、ガラスの器はどれほど美しく見えたでしょう。人々は、ポルトガル語でガラスという意味の「vidro(ヴィドロ)」から、ガラスを「びーどろ」と呼ぶようになりました。
ただガラスの製造方法はヨーロッパからは学ばず、中国の手法を倣ったため、中国語の「硝子」から漢字を取りそのまま使われるようになりました。また、手法は中国、技法はヨーロッパから学んだこともあり、ヴェネチアングラスやボヘミアングラスのようなグラスが多くつくられています。
珍重された和ガラス
国産のガラスである和硝子は、最初に長崎で作られるようになり、やがて大阪、江戸へと広まっていきました。
そして、和ガラスを江戸に広めたのが、ガラス問屋の加賀屋久兵衛とガラス職人の上総屋留三郎の2人。加賀屋久兵衛は日本で初めて切子を作った人といわれ、江戸切子の創始者ともされています。加賀屋では切子の皿、盃、眼鏡などが作られていました。上総屋留三郎は、ガラスのかんざしや風鈴、金魚鉢などを販売。中でも風鈴は、江戸の夏を彩るアイテムとして人気を集め、長い行列ができるほどだったといいます。
当時のガラスは、江戸っ子たちにとって少々値が張るものの、少し頑張れば手に入るお洒落で粋なものでした。季節を感じる器として、女性の髪を飾るかんざしとして、江戸の人々に愛されるようになったのもこの時代です。
びーどろとぎやまんの違いとは
戦国時代にはすべてのガラス製品が「びーどろ」と呼ばれていました。しかし、江戸時代になりガラスが普及しはじめると、それぞれ「びーどろ」と「ぎやまん」など、歴史や製造方法などで使い分けられるようになっていきました。
和硝子を指す「びーどろ」
初期の「びーどろ」という言葉は、ポルトガルなどからやってくる舶来ガラス製品の総称でした。しかし時を経て、江戸時代になると、「びーどろ」は和硝子の中でも鉛ガラスを原料にしたガラス製品のことを呼ぶようになりました。その代表的なものとして、吹きガラスがあります。
吹きガラスというのは、中が空洞になった竿にさして、棹から空気を入れてガラス種を膨らませて成型するガラス製品のこと。ガラスを1400度で溶かし水飴のような状態(ガラス種)になったら、棹に種を巻き取って、息を吹き込んで硝子に空気を送り、成形します。
鉛ガラスは透明度が高く、硬いことから全国各地で作られるようになりました。
ちなみに和硝子というのは、日本でつくられたガラスの総称。ヨーロッパと中国のそれぞれよいところを合わせた和硝子は、日本人らしいガラスであるといえます。
ヨーロッパ製のカットガラスを意味した「ぎやまん」
びーどろはポルトガルの言葉が語源でしたが、「ぎやまん」もダイヤモンドを意味するポルトガル語「diamant(ジアマンテ)」から来ているといわれています。ポルトガルやスペイン、オランダなどから届いたガラスの多くは、ヴェネチアングラスやボヘミアングラスなどのカットガラスでした。
このカットガラスを作るのに欠かせなかったのがダイヤモンド。硬いガラスにカットを施すのに、さらに硬いダイヤモンドが使われていました。そのため、こういったカットグラスの舶来品はすべて「ぎやまん」と呼ばれるようになったのです。さらに江戸時代中期、はじめて江戸切子を作ったとされるガラス問屋・加賀屋久兵衛も、切子を作るのに金剛砂(ダイヤモンド)を使用。
このことから、やがて海外のカットガラスを含め、「江戸切子」「薩摩切子」など、カットガラスすべての総称として「ぎやまん」と呼ぶようになっていきました。
今も愛されるびーどろとぎやまん
伝統工芸品が注目されるようになり、改めて注目されている「びーどろ」と「ぎやまん」。明治初期に一度伝統が失われた薩摩切子などが復興されるなど、たくさんの人々が買い求めるようになってきています。
滑らかな宙吹きが美しいびーどろ
○肥前びーどろ
鍋島藩(佐賀県)藩主・鍋島直正が、江戸末期に精煉方を作ったことが始まりといわれています。明治になると食器などの生活必需品を作るようになり、やがて民間の会社になりました。これが現在の肥前びーどろの工房です。
肥前びーどろは、2本の棹を操る「ジャッパン吹き」という独特な技法で作られており、透明度の高く艶やかな味わいが特徴です。
○津軽びいどろ
青森の北洋硝子という会社では主にガラスの浮き玉を作っていましたが、やがて世の中はプラスチックの浮き玉が主流に。新しいガラス製品を模索する中、ある職人が七里長浜の砂を使ってガラスを作れないかと思いたち、砂をガラス種に入れてみたところ、ガラスは透き通った深緑色に変化。これが津軽びいどろ誕生の瞬間でした。
津軽びいどろの特徴は、なんといっても100色以上出せるという色鮮やかな色ガラス。宙吹きの技法によってつくられる滑らかなガラスは、県の伝統的工芸品にも指定されています。
○琉球ガラス
沖縄でガラスが作られはじめたのは、明治中期のこと。薬瓶などが作られていました。第二次世界大戦後、沖縄を占領した駐留米軍が捨てたコーラの空き瓶などをリサイクしたのが、本格的な琉球ガラスのはじまりです。
独特の色合いや分厚さ、宙吹きならではの気泡がアメリカ人を中心に受け入れられ、人気を集めました。現在では沖縄を代表する伝統工芸品として愛されています。
美しいカットで世界を魅了するぎやまん
○江戸切子
加賀屋久兵衛が作った江戸切子は、無色透明のガラスを重ね、カットの文様を施したものが主流でした。色ガラスを重ねる難しさもありますが、透明度の高い澄んだガラスが江戸っ子たちに好まれたということもあります。現在では色ガラスも用いられるようになりましたが、江戸時代そのままに浅くシャープで、文様のキレがよい江戸切子は、粋でお洒落な江戸っ子の性格を表しているといえるでしょう。
○薩摩切子
江戸切子のすぐれた職人を薩摩藩に招き、薩摩ならではの切子を作ろうと試みたのが、幕末の名君として知られる藩主・島津斉彬でした。斉彬の命令のもと、分厚く重ねた色ガラスを使った薩摩切子が誕生。江戸切子と違い、分厚い色ガラスにカットを入れているため、色ガラスから透明なガラスへと変わっていくグラデーションが特徴です。これは、ぼかしともいわれ、薩摩切子ならではの重厚感を生んでいます。
明治に一度、その技術は失われてしまいましたが、その後100年を経て薩摩切子は復活。今では2つの工房が新たな薩摩切子の生産に取り組んでいます。
和硝子の歴史を知れば、ガラス製品はもっと楽しめる
縄文時代から続く日本のガラスの歴史。一旦は失われてしまったようにみえたものの、戦国時代に再度歴史舞台に登場し、江戸時代にその技術・文化は大きく花開きました。多くの和硝子が誕生したのもほとんどは江戸時代。それぞれの流れや名前の由来などを知ることで、ガラスの器にもっと愛着が持てるようになるでしょう。ぜひ、作られた背景などにも思いを寄せてみてください。
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