コンテンツへスキップ

カート

カートが空です

記事: 東海地方の伝統工芸品10選。カタチを変え今も進化する。

東海地方の伝統工芸品10選。カタチを変え今も進化する。
#伝統工芸の旅

東海地方の伝統工芸品10選。カタチを変え今も進化する。

日本では古くからその土地の文化や歴史に基づいて、さまざまな工芸品や民芸品が作られてきました。現在は国が指定しているもので230品目以上の伝統工芸品が全国に存在します。今回は、そのなかでも東海地方の伝統工芸品をいくつか紹介します。

 

美濃焼(岐阜)

美濃焼とは、岐阜県の東濃地方で作られる焼き物のこと。美濃焼は、食器類の国内シェア50%以上を占めており、日本を代表する焼き物の産地として知られています。

美濃焼は、決まった1つの形式を取らず、伝統工芸品として指定されている美濃焼は細かく15種類あります。なかでも「織部」や「志野」といった種類が代表的です。

5世紀初頭に朝鮮半島から須恵器の技術が伝わったのが、美濃焼の始まりとされています。平安時代には、須恵器を改良して釉薬をかけた「白瓷(しらし)」と呼ばれる陶器が作られるようになりました。

安土・桃山時代に入ると茶の湯の流行とともに美濃焼の産業は大きく発展し、織部や志野、黄瀬戸などの種類が誕生。昭和時代に入ると、焼き物の技術を応用し、陶土でタイルなども作られるようになりました。

「日本三大陶器祭り」のひとつにも数えられる「美濃焼祭り」は、毎年5月に開催され全国各地から30万人以上が訪れます。多種多様な美濃焼のデザインは、どんな食卓にも馴染むので普段使いにもぴったりです。

SUGYのイメージ写真

SUGY(美濃焼)について詳しく見る

 

美濃和紙(岐阜)

美濃和紙とは、岐阜県の美濃市で主に作られる和紙のこと。美濃和紙は、薄い紙でも布のように丈夫で、ムラがなく美しい質感が特徴。薄くて耐久性に優れた美濃和紙は、提灯や灯篭、和傘などに用いられることが多いです。

美濃焼の歴史は奈良時代にまで遡ります。戸籍用紙が美濃和紙であったという記録が「正倉院文書」に残っており、これが美濃焼の起源だと言われています。室町時代には美濃国の守護である土岐氏が製紙業の保護を奨励。さらに、六斉市と呼ばれる紙市場を開催することで、美濃焼を地場産業として大きく発展させました。

デザイン・実用性ともに優れた美濃和紙は、2021年に開催予定の東京五輪の表彰状に採用。豊かな自然に恵まれ、上質な清流が流れる美濃で作られる和紙は、今でも多くの人を魅了しています。

 

岐阜提灯(岐阜)

岐阜提灯は、岐阜県の岐阜市を中心に作られる提灯のこと。岐阜提灯は、精巧な竹細工と上質な美濃和紙でできた提灯に、花鳥風月などの優雅な色彩絵が施されているのが特徴。

提灯といえば、お盆や納涼で明かりを灯すイメージが強いですが、岐阜提灯は室内の照明器具としても人気があります。

岐阜提灯の起源については諸説ありますが、宝暦年間(1751年〜1763年)に岐阜の提灯屋十蔵が、提灯を尾張藩に上納していたことから、18世紀後半にはすでに岐阜の地で製造が開始されていたことがわかります。

当時は装飾がされていない無地のものがメインでしたが、18世紀以降は草花の色彩画を施した提灯が登場し、特別な日の高級品として使われていました。

その後は、海外の展示会で高評価されるなど、日本だけでなく海外からも注目が集まるようになりました。今ではコンパクトな提灯も製造され、インテリアとしても親しまれています。

 

駿河千筋細工(静岡)

駿河千筋細工は、静岡県の静岡市で発展した竹細工のこと。駿河千筋細工は、細い丸ひごを編み上げてつくる繊細な曲線が特徴。他の産地では「平ひご」を使うのに対し、駿河千筋細工は「丸ひご」を採用。ひご作りから組み上げまで、一人の職人が手作業でおこないます。

弥生時代の登呂遺跡(静岡県)から竹細工が出土していることから、駿河の地では古くから竹細工の製造が始まっていたこがわかります。17世紀に入ると、駿河の籠枕が参勤交代の諸大名の間で人気を博しました。

現代のような丸ひごを使った竹細工は、1840年に岡崎藩士の菅沼一我が宿泊先の息子、清水猪兵衛に竹細工の技術を伝えたのが始まりとされています。

職人の手で一本一本編み上げられる駿河千筋細工は、籠や手提げだけでなく、照明器具や風鈴など空間を彩る作品としても多くの人を魅了しています。

 

駿河雛人形(静岡)

駿河雛人形とは、静岡県の静岡市周辺で作られる雛人形のこと。駿河雛人形の一番の特徴は、なんといっても人形の胴体部分に太い藁が使われていること。

これは、米の生産量が多い静岡では、多くの稲藁が手に入ったからと言われています。また、駿河雛人形は衣装が上下別になっており、上下分業体制で作っているので量産が可能です。

駿河雛人形の起源は明確にはなっていませんが、桐の木片を練り固めた「桐塑(とうそ)」で作った煉天神がルーツだと言われています。天神とは、菅原道真を模った人形のことで、人々の信仰の対象となりました。江戸時代末期には「衣装着雛天神(衣装を着せた天神)」が制作され、これが現在の駿河雛人形の原型とされています。

雛人形の制作で最も職人の個性が現れるのが、「振り付け」と呼ばれる両手を曲げる工程。この作業に職人の魅力が凝縮されており、曲げの形を見れば誰の作品かがわかるほどです。

 

名古屋友禅(名古屋)

名古屋友禅とは、名古屋県の名古屋市を中心に作られる染色品のこと。名古屋友禅は、華やかな柄や複数の色を使わず、単色濃淡で表現される渋く落ち着いた雰囲気が特徴的。名古屋友禅には、「手描き友禅」「型友禅」「黒紋付染」の3種類の技法があります。

名古屋友禅の製造が始まったのは、18世紀前半と言われています。当時の尾張文化は非常に華やかで、江戸や京都など全国からたくさんの職人が行き来していました。その頃に友禅染の技法も名古屋に伝わったとされています。

現在まで200年以上続いてきた名古屋友禅ですが、1983年までは「名古屋友禅」という言葉はありませんでした。それまでは、京友禅の分業として製造していたので、「京友禅」として販売されていたのです。

しかし、1983年に「名古屋友禅黒紋付協同組合連合会」を設立したとこで「名古屋友禅」として独立。同年に経済産業省指定の伝統的工芸品に認定されました。

 

三州鬼瓦工芸品(名古屋)

三州鬼瓦工芸品とは、名古屋県の碧南市・安城市・高浜市で作られる伝統工芸品のこと。三州鬼瓦工芸品は、釉薬をかけずに高温で焼成し、酸素を遮断することで現れる「いぶし銀」とよばれるマットで力強い色合いが特徴。鬼瓦の職人は「鬼師」や「鬼板師」と呼ばれています。

三州鬼瓦工芸品の歴史は1720年にまで遡ります。徳川吉宗は火災の蔓延を防ぐ対策として、瓦葺を奨励。瓦の原料が豊富にあったことや海に近いので頻繁に江戸に輸送できたことにより、瓦作りが地場産業として大きく発展しました。

魔除けや厄除け、繁栄の象徴として親しまれてきた三州鬼瓦工芸品は、室内用のインテリアや小物雑貨など、庶民の生活の中にも取り入れられています。近年では、社会現象にもなった「鬼滅の刃」とのコラボ商品を開発し話題になりました。

 

常滑焼(名古屋)

常滑焼とは、名古屋県の常滑市を中心に発展してきた陶磁器のこと。常滑焼は、六古窯のひとつに数えられ、中世から続く歴史ある焼き物の産地として知られています。常滑焼は、知多半島で採れる鉄分を多く含んだ陶土を使うことで、焼いたときに鉄分が反応して赤く発色するのが特徴です。

常滑焼の歴史は、平安時代にまで遡ります。愛知県知多半島には3000基もの穴窯があったとされており、壺・甕・山茶碗などが主に作られていました。当時作られていたものを「古常滑」と呼び、常滑焼の起源だと言われています。

安土・桃山時代には、茶の湯や生け花で使用する器が作られるようになり、江戸時代に入ると生活で使う日用品も多く見られるようになりました。そして明治時代には、常滑焼を用いた土管や洗面器、便器、タイルなども多く作られました。

時代と共に形を変え、試行錯誤することで、常に人々の生活に合った商品を作り続けてきました。その姿勢は今も変わらず、今でも現代の生活に馴染む商品を作り、多くの人から親しまれています。

 

四日市萬古焼(三重)

四日市萬古焼とは、三重県の四日市市を産地とする陶磁器です。四日市萬古焼は、急須や土鍋の代表的な産地で、土鍋は国内生産高の約80%を占めています。四日市萬古焼に使用される、陶土中にリチウム鉱石を約40%含ませることで、直火や空焚きにも耐えられる耐熱性が実現します。

四日市萬古焼の歴史は、江戸時代中期にまで遡ります。三重県桑名市の豪商であった、沼波弄山が茶器を焼き始めたのが起源とされています。弄山は自分の作品が「世にいつまでも残るように」という意味を込めて、作品に「萬古不易」の印を押したのが、名前の由来です。

弄山の没後は後継者がおらず、一時は絶滅します。しかし、その後は研究と開発が繰り返され、現代の四日市萬古焼が誕生しました。

現在は、無印良品で四日市萬古焼の商品が販売されるなど、現代の食卓にも合うモダンなデザインの商品も多くなりました。デザインだけでなく実用性にも優れた四日市萬古焼は、国内だけでなく海外からも人気があります。

 

伊勢形紙(三重)

伊勢形紙とは、三重県の鈴鹿市を中心に作られている、染色に使われる型紙のこと。主に友禅や浴衣、手拭いなどの型染めに用いられています。伊勢形紙は、強靭な耐久性を持つ美濃和紙を貼り合わせ、柿渋でさらに補強した型紙を職人が彫刻刀で文様や柄を彫り抜きます。

伊勢形紙の起源は明確になっておらず、諸説あります。一説には、室町時代に描かれた「職人尽絵」に、型紙を使う職人が登場していることから、室町時代には型染めの技術があったと言われています。その後、江戸時代には、藩の保護のもとで大きく発展し、伊勢湾に近かったことから全国に流通しました。

一般的な服装が和服から洋服に変化したことによる、需要の減少や新しい染技術の誕生により、型紙の生産量は減少傾向にあります。しかし、現代では染め物に用いる型紙としてだけでなく、室内装飾や照明器具などのインテリアとしても応用。全く新しい取り組みにより、多くの人に魅力を発信しています。

 

想いを継承し文化を発展させるため、日々進化する工芸品

東海地方では、江戸や大阪を行き来する多くの旅人が訪れ、西と東の文化が伝わり、独自の文化へと発展してきました。また太平洋側に面した海岸では、江戸時代にはさまざまな貿易が行われ、全国的に大きく流通。

モノづくりに対する想いを継承し、文化を発展させるために、人々のライフスタイルに合わせて商品を作ったり、革新的な取り組みで魅力を発信させたりと、地元企業が一体となって努力しています。

【あわせて読みたい】
「伝統工芸の魅力」記事一覧