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記事: なぜ藩は工芸を育てたのか|有田焼・九谷焼・久留米絣・南部鉄器をたどる

なぜ藩は工芸を育てたのか|有田焼・九谷焼・久留米絣・南部鉄器をたどる
#工芸の視点

なぜ藩は工芸を育てたのか|有田焼・九谷焼・久留米絣・南部鉄器をたどる

有田内山を歩いたとき、坂道の脇に続くトンバイ塀が目に留まりました。登り窯で使われた耐火レンガや陶片を赤土で固めた壁です。町の景観そのものに、窯業が長く続いてきた時間が残っていました。産地を訪ねると、その土地でなければ生まれなかっただろうと思う瞬間に出会います。

よい土や鉄、水や綿花がある。それだけでも理由になりそうですが、なぜこの土地に、この仕事が、これほどの厚みをもって残ったのか。調べていくと、その背景には江戸時代の藩の姿が見えてきます。

藩は土地の資源を見出し、職人を保護・招致し、品質を守り、藩外へ売る道をつくりました。もちろん、すべての工芸産地が藩の政策によって生まれたわけではありません。それでも、その仕事が今日につながる産地の基盤になった例は少なくありません。

本記事では、有田焼、九谷焼、久留米絣、南部鉄器という四つの事例から、藩が工芸の立ち上げと発展にどう関わったのかを見ていきます。

1|藩は、何のために工芸を育てたのか

江戸時代の藩にとって、領内のものづくりは文化であると同時に、暮らしと財政を支える大切な産品でした。米だけに頼れない土地ほど、山の鉄、谷の水、良質な土や綿花といった資源を仕事に変える必要があったといえます。

各地の藩が行ったことは、おおまかに共通しています。まず、土地の資源を見極めること。次に、技術をもつ職人を他国から招いたり、領内の職人を保護したりして、技を絶やさないようにすること。さらに、粗悪な品が出回らないよう品質をそろえ、産地の評判を守ること。そして、城下町の需要にとどまらず、江戸・大坂の市場や、藩によっては海外への販路を開くことです。

工芸は、藩の威信とも結びついていました。大名同士の贈答、参勤交代の進物、茶の湯の道具。よい品をつくれる土地であることは、藩の格を示すことでもあったのです。

ただし、この「育てる」仕組みには、もう一つの顔があります。職人の移動や販売先が制限されたり、生産量や規格が細かく管理されたりと、保護は同時に統制でもありました。技術が守られ、産地としての厚みが生まれた一方で、職人たちが自由に商いをできたわけではない。その両面をあわせて眺めると、産地の歴史は少し立体的に見えてきます。

ここから、有田焼、九谷焼、久留米絣、南部鉄器という四つの産地を歩き直してみます。

 

2|海の向こうへ器を送った佐賀藩|有田焼

有田の磁器は、17世紀初頭、朝鮮半島から渡ってきた陶工たちによって始まったとされます。泉山で磁器の原料となる陶石が見つかり、日本で初めての磁器の産地が生まれました。

佐賀藩にとって、有田の窯業は領内の重要な産品でした。窯場の運営や流通に関与しながら、技術と産地の価値を守ろうとした仕組みがあったとされます。藩の贈答用には大川内山に窯を構え、市場に出さない特別な器を焼かせました。

今日「鍋島」と呼ばれる精緻な器は、この仕組みの中で磨かれたものです。市場に出さないという選択そのものが、藩による管理の一つの形でもありました。

有田の器を大きく変えたのは、海の向こうの需要でした。17世紀半ば、中国が明から清へ移る動乱で景徳鎮の磁器の輸出が滞ると、その代わりを求めて、長崎の出島からオランダ東インド会社の船が有田の磁器を積み出すようになったとされます。伊万里の港から運ばれたことから「伊万里」の名でヨーロッパに知られ、王侯の宮殿を飾りました。

遠い市場を相手にするということは、見たこともない使い手の好みを想像することでもあります。ヨーロッパ向けの大きな飾り壺、余白を生かした柿右衛門様式、国内の膳に合う染付の皿。注文に応えるうちに、有田の意匠と技術の幅は広がっていきました。

この事例から見えるのは、藩が窯業と流通に関わり続けたことだけでなく、遠く離れた使い手の求めに応える中で、産地自身の技術と意匠が育っていったという構図です。藩内で完結する保護ではなく、外への回路が開かれていたことが、有田の厚みをつくったのだと思います。

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3|城下町の美意識を、技にした加賀藩|九谷焼と蒔絵

加賀藩は、百万石といわれた経済力を背景に、工芸をことのほか大切にした藩でした。前田家は京都や江戸から名工を招き、藩の細工所で蒔絵や象嵌などの技を育てたと伝えられます。武力よりも文化に力を注ぐ姿勢は、幕府への配慮でもあったとする見方もありますが、結果として金沢の城下には、茶の湯、能、書画をたしなむ層が厚く育ちました。

九谷焼は、17世紀半ば、加賀藩の支藩である大聖寺藩の領内、九谷村で焼かれ始めたとされます。緑や黄、紫を大胆に重ねる色絵の様式は、いま「古九谷」と呼ばれ、約半世紀で窯が閉じられた後も、19世紀に入って再興されました。春日山窯や吉田屋窯など、再興期の窯ごとに画風が異なるのも九谷の面白さです(古九谷の産地については研究上の議論が続いています)。

九谷の色絵や加賀蒔絵の細密な文様は、華やかさだけを追った装飾というより、贈答や茶の湯の場で品を見る目が肥えた城下町の、美意識そのものが形になったものと捉えることができます。

この事例が示しているのは、藩が一方的に職人を保護したという構図だけではありません。豊かな注文主がいて、応える職人がいて、互いに目を磨き合う。その循環があってはじめて、加賀の工芸の密度が生まれたということです。藩の経済力は、その循環が動き続けるための土台だったといえます。

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4|藩が育て、時代が全国へ運んだ|久留米絣

久留米絣は、筑後川流域の水と綿花栽培を背景に育った織物です。江戸時代後期、久留米藩の城下に生まれた井上伝が、糸を括って染め分け、模様を織り出す技法を考案したと伝えられます。

久留米藩は殖産興業を進め、絣を主要産業の一つとして育てました。幕末の慶応年間には、年間およそ6万反が藩外へ送り出され、藩財政を支えたとされます。一人の考案から生まれた技法を、藩が産業として育て、外へ売る仕組みに乗せたことが、この産地の一つの厚みになっています。

久留米絣が全国に広く知られる大きな契機になったのは、1877年の西南戦争でした。政府軍の拠点となった久留米には各地から兵士が集まり、帰郷する兵士が土産として持ち帰ったとも伝えられています。藩政期に育てられた産業と流通の基盤が、まったく別の出来事をきっかけに、全国という新しい市場を受け止めた形です。

もっとも、急激な需要の増加は、よい面ばかりをもたらしたわけではありません。需要に追われる中で粗製濫造が起こり、産地の評判が揺らぐ場面もありました。明治13年には、染業者による緑藍組、販売業者による千年社などが組織され、品質と責任の所在を整える動きにつながったとされます。明治に入ると、産地は急増した需要に対応するため、あらためて品質と責任の所在を整える必要に迫られました。

現在、久留米絣は着物だけでなく、洋服や小物にも展開されています。

この事例から見えるのは、藩が生んだ産業がそのまま今日まで続いたという単純な話ではなく、藩政期につくられた基盤の上に、時代の出来事が新しい需要を運び、その需要の負荷が品質を守る仕組みを鍛え直した、という重なりです。

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5|御用の茶釜から、暮らしの鉄瓶へ|南部鉄器

盛岡の鉄器は、鉄資源と鋳造に適した土地柄に、藩の意志が重なって育ちました。南部藩は17世紀、京都から釜師を招き、茶の湯釜をつくらせたと伝えられます。大名にとって茶の湯は外交の場でもあり、よい釜を領内でつくれることには意味がありました。

やがて、茶の湯釜の技術をもとに、注ぎ口と持ち手を備えた鉄瓶が生まれます。茶の湯の道具だった鉄が、湯を沸かす日々の道具へと降りてきた瞬間です。

この事例が興味深いのは、藩が最初に求めたのは御用の茶釜という、限られた場のための特別な品だったという点です。そこで磨かれた技術が、藩の外へと開かれることで、暮らしの中で毎日使われる鉄瓶へと広がっていきました。藩のための技術が、結果として多くの使い手の道具になった、その移り変わりの跡が、南部鉄器の歴史には残っています。

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おわりに|品を見ることは、土地の選択を知ること

一つの器や織物の向こうには、素材と職人、使い手がいます。さらにその奥には、その土地が長い時間をかけて選んできた仕事のあり方が重なっています。海の向こうを見た有田。城下町の美意識を磨いた加賀。藩の産業基盤を、時代の出来事が全国へ運んだ久留米。茶の湯釜から鉄瓶へと技を広げた盛岡です。

四つの事例を並べると、「藩が関わったから工芸が残った」と言い切るのは、少し乱暴に思えます。産地を支えたのは、資源、職人、流通、使い手、そして品質を守る仕組みでした。藩の保護は、ときに統制でもあり、藩の外で起きた出来事が新しい市場を開くこともありました。

背景を知ったからといって、器や織物の使い心地自体が変わるわけではないでしょう。それでも、目の前の品が、土地の人々が選び、育て、受け継いできた仕事の先にあると知れば、見え方は少し変わってくるはずです。

日本工芸堂は、産地を訪ね、つくり手の話を伺いながら、その「もう一枚奥」にある背景も品とともにお伝えしていきます。

>「つくり手に会いに行く」としてまとめています。

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