記事: ガラスは日本で、どのように暮らしの器になったのか

ガラスは日本で、どのように暮らしの器になったのか
日本工芸堂では日々、切子の盃や吹きガラスの器、風鈴、花器を扱っています。仕入れのために器を手に取り、撮影し、言葉にして紹介する。その繰り返しのなかで感じるのは、ガラスが光や水、料理の色、季節の気配を受け止めて、同じ器でも置く場所や時間によって表情を変える素材だということです。
先日、東京国立博物館で、古墳時代のガラス製品と、それらが東アジアから西アジアへとつながる広い交流のなかにあったことを示す展示を見る機会がありました。日々扱い、お客様のもとへ送り出しているガラスの器もまた、そうした遠い時間と場所の延長にある。そう思うと、あらためてこの素材の来歴をたどってみたくなりました。
よく冷えたガラスの盃に酒を注ぐと、器の底で光が小さく揺れます。夏の食卓に置かれた小鉢、窓辺で鳴る風鈴、一輪の花を挿したガラスの花器。どれも、かたちを持たないものを受け止める器です。
いま私たちは、ガラスの器をごく当たり前のものとして使っています。けれど日本の長い歴史のなかで見ると、ガラスが日々の道具になったのは、意外なほど新しい出来事です。もともとガラスは、海の向こうから届く貴重な素材でした。装身具になり、祈りの場を飾り、権威のしるしとなり、いちど暮らしから遠ざかり、ふたたび海を渡って戻ってきて、ようやく江戸の町で庶民の手に届く道具になっていきます。
この記事では、その長い道のりをたどりながら、遠来の素材だったガラスが、酒器や小鉢、風鈴といった身近な器へと姿を変えていく過程を追いかけます。そしてその先に、いまの食卓や贈り物、一杯の時間へガラスがどう届いているのかを、器を扱う立場から考えてみたいと思います。
目次
海の向こうから届いた、小さなガラス玉
日本列島にガラスが姿を見せるのは、弥生時代までさかのぼります。各地の遺跡から、青や緑のガラス小玉、管玉が出土しており、成分の分析からは、大陸や朝鮮半島を介し、さらに南アジア・東南アジアを含む広い地域とつながる流通のなかでもたらされたと考えられています。
このころのガラスは、器ではなく「玉」でした。首飾りや腕輪に連ねられた小さな粒。石でも貝でもない、光を内側に宿すような質感は、当時の人々の目にひときわ特別に映ったはずです。古墳時代には、ガラス製の勾玉や大量の玉類が副葬品として納められるようになります。原料から国内で作られたのか、渡来した素材を溶かし直して成形したのか、細部には今も議論が残りますが、少なくとも海を越えて届いた素材に手を加える技術は、この列島で育ちつつありました。
暮らしの道具になるはるか前、ガラスはまず、身を飾り、死者に添えられる特別なものとして日本に根を下ろしたのです。
なお、ガラスそのものの起源はさらに古く、古代西アジアやエジプトで発達した素材です。地中海世界からシルクロードを経て東へ伝わり、その流れの東の端に、弥生の小さなガラス玉があったと考えると、遠さの感覚が少し変わってきます。いま手に取る透明な器にも、二千年を超える交易と技術の連なりがあると思うと、見慣れた一品の見え方も少し変わってきます。
祈りと権威を彩った古代のガラス
飛鳥・奈良時代になると、仏教文化と大陸との交流を背景に、ガラスは祈りの場へと入っていきます。仏舎利を納める容器にガラスが使われ、寺院の荘厳にガラスの玉が用いられました。仏典で七宝のひとつに数えられる「瑠璃」は、ガラスや青い宝石を指す言葉です。透きとおる素材そのものが、浄土を思わせるものとして尊ばれていました。
正倉院には、いまもガラスの器が伝わっています。なかでも白瑠璃碗と呼ばれるカットガラスの碗は、ササン朝ペルシアで作られたと考えられており、西アジアの工房から長い交易路を経て、奈良の都まで運ばれてきたことになります。砂漠と海を越えてきた一つの碗が、千二百年以上を経て割れずに残っている。そのこと自体が、当時のガラスがどれほど大切に扱われたかを物語っています。
この時代、国内でも玉類などのガラス製作が行われた記録が残りますが、ガラスはまだ、日々使う道具ではありません。納める、供える、伝える。ガラスの役割は、暮らしの外側の、特別な領域にありました。ガラスが古くから特別な場で大切に扱われてきたことは、いま節目の贈り物としてガラスの器が選ばれる場面とも重なります。
いちど遠ざかり、ふたたび海から渡ってきた
平安時代から中世にかけて、国内のガラス製作は継続性を弱めていきます。理由は一つに絞れませんが、この間に陶磁器や漆器が食の器として大きく発達し、暮らしの器の主役が確かなものになっていったことは見逃せません。ガラスは輸入品としての性格を強め、多くの人にとって、目にする機会の少ないものになっていきました。
流れが変わるのは、16世紀半ば以降の南蛮貿易です。ポルトガルやスペインの船が九州の港に着き、宣教師たちが献上品としてガラス器や鏡、眼鏡などを携えてきました。織田信長や豊臣秀吉の時代、ガラスはふたたび、海の向こうの珍しく貴重な品として権力者たちの手元に届きます。弥生の玉から千数百年を経て、ガラスはもう一度「舶来の特別なもの」として日本に現れたわけです。
ただ、前と違ったのは、このあと素材だけでなく「作る技術」が海を渡ってきたことでした。
長崎から広がった「びいどろ」の技

江戸時代、ガラスは「びいどろ」と呼ばれました。ポルトガル語でガラスを意味する vidro に由来する言葉です。ほかに、カットや彫刻を施した上等なガラスを「ぎやまん」と呼ぶこともありました。呼び名そのものに、この素材が南蛮貿易とともに入ってきた記憶が刻まれています。
製法の受け入れ口となったのが長崎です。江戸前期には長崎でガラス製造が行われるようになり、その技は大坂、京、江戸へと伝わっていきました。吹き竿の先に溶けたガラスを巻き取り、息を吹き込んでふくらませる。窯の火と職人の息づかいで形が決まる吹きガラスの技術が、ようやく日本の町で動き始めます。いま扱っている宙吹きの器の口元に、息の名残のようなゆらぎを見つけるたび、この時代に渡ってきた技の続きを手にしているのだと感じます。
長崎土産として知られた「ぽっぴん(ビードロ)」は、息を吹き込むと底が「ぽぺん」と鳴る小さなガラスの玩具です。喜多川歌麿が「ビードロを吹く娘」を描いたように、江戸中期には、ガラスは絵になるほど人々の身近に近づいていました。
>関連記事:ガラス工芸品「びーどろ」と「ぎやまん」の違いはなに?
江戸の町で、ガラスは身近な道具になる
盃、小鉢、かんざし、風鈴
18世紀に入ると、江戸の町でもガラス作りが本格化します。日本橋の加賀屋久兵衛や浅草の上総屋留三郎といった職人の名が伝わり、簪や櫛、風鈴、金魚玉、そして盃や徳利、小鉢といった食の器まで、作られるものの幅は一気に広がりました。加賀屋が配った引き札(商品カタログ)には、日用の品から理化学用の器具まで、実に多彩なガラス製品が並んでいたと伝わります。
ここで起きた変化は、素材の歴史のなかでも大きな節目です。かつて権力者への献上品だったガラスが、町の職人の手で作られ、店先に並び、庶民が銭を出して買えるものになった。祈りと権威の素材が、髪を飾る簪になり、晩酌の盃になったのです。

興味深いのは、この二つの性格が、いまのガラスにもそのまま残っていることです。現代でも、切子は還暦や退職といった節目の贈り物や、特別な一杯のために選ばれることが多く、吹きガラスの器は毎日の水や素麺、常備菜を受け止める道具として選ばれていきます。「特別なもの」としてのガラスと「暮らしの道具」としてのガラス。江戸の町で分かれたふたつの流れを、私たちはいまも選び分けながら使っているといえます。
暮らしに季節の気配を取り込む
江戸の人々がガラスに見出した価値のひとつが、「涼」でした。ガラスの風鈴は軒先に吊るされ、風が来たことを澄んだ音で知らせます。金魚玉には金魚が泳ぎ、水とガラスが二重に光を透かします。夏の座敷にびいどろの器を出すことは、目と耳で涼を取る、江戸らしい楽しみ方でした。
もっとも、当時のガラスはまだ気軽な買い物とまでは言い切れず、割れ物ゆえの扱いにくさもありました。それでも「夏はガラス」という感覚がこの時代に育ち、季節のしつらえの一部としてガラスが定着していったことは、いまの私たちの食卓に、まっすぐつながっています。
光を彫る、色を重ねる|切子の誕生

江戸切子
ガラスが器として広がると、次は表面に手を加える技が生まれます。天保5年(1834年)、江戸大伝馬町のびいどろ屋・加賀屋久兵衛が、金剛砂を使ってガラスの表面に彫刻を施したのが江戸切子の始まりと伝えられています。
透明なガラスに、魚子(ななこ)、麻の葉、菊つなぎといった文様を刻む。カットされた面は光を細かく反射し、同じ器でも、置く場所と光の向きで表情を変えます。文様の多くは着物や建具にも見られる江戸の意匠で、切子は、町人文化が育てた装飾ガラスでした。明治以降は欧州のカット技術も取り入れながら磨かれ、色ガラスを薄く重ねた「色被せ」の切子が主流になって、現在の江戸切子の姿につながっていきます。切子の盃を撮影のために窓辺へ置き直すと、時刻によって同じ文様がまったく違う光を返すことがあります。江戸の人々が惹かれたのも、きっとこの移ろいだったのでしょう。
薩摩切子
一方、薩摩藩では、藩が主導するかたちで切子が生まれました。幕末、藩主・島津斉彬が集成館事業のなかでガラス製造に力を注ぎ、厚く色ガラスを被せた生地に深いカットを入れる薩摩切子が作られます。厚い色層を斜めに切ることで、色から透明へと移ろう「ぼかし」が生まれる。藩の威信をかけた品として、大名間の贈答にも用いられました。
しかし斉彬の急逝、薩英戦争、明治維新と続く激動のなかで、薩摩切子の製造は途絶えてしまいます。長く「幻の切子」と呼ばれた技が復元されたのは昭和60年(1985年)のこと。いま手に取れる薩摩切子は、途絶と復元の物語をまとった器です。
町人の暮らしから育った江戸切子と、藩の事業として生まれた薩摩切子。成り立ちは対照的ですが、どちらも「光を彫る」という発想で、ガラスの器に日本の文様感覚を重ねた点で共通しています。
土地ごとに育った、さまざまなガラス
明治以降、ガラスは工業製品として大量に作られるようになります。その一方で、手仕事のガラスは各地でそれぞれの事情を背負いながら育ち、いまも産地ごとに異なる表情を見せています。
江戸硝子
東京と千葉で受け継がれる江戸硝子は、型を使わない宙吹きや型吹きなど、手作業を主体とした吹きガラスです。江戸期から続くガラス作りの流れを汲み、2014年には国の伝統的工芸品に指定されました。切子の生地となるガラスを吹く工房も多く、江戸切子を裏側で支える存在でもあります。
肥前びーどろ
佐賀の肥前びーどろは、幕末に佐賀藩が設けた理化学研究所「精煉方」でのガラス製造にルーツを持ちます。型を使わず宙吹きで仕上げるやわらかな輪郭と、二本の吹き竿を持ち替えて成形する「ジャッパン吹き」と呼ばれる技法が特徴で、注ぎ口までガラスだけで仕上げた酒器には、道具の跡を残さないなめらかさがあります。
琉球硝子
沖縄の琉球硝子が大きく展開したのは、戦後のことです。物資の乏しい時代、駐留米軍が使い終えた飲料の色瓶を溶かし直し、器に再生したことが、現在の琉球硝子の性格を決めました。再生ガラスゆえに入る気泡、厚みのある生地、海を思わせる色。制約から生まれた個性が、そのまま魅力になった工芸です。
津軽びいどろ
青森の津軽びいどろは、もともと漁業用の浮玉を作っていたガラス工場の技術から生まれました。浮玉づくりで培った宙吹きの技に色ガラスを重ね、雪、桜、祭り、紅葉と、四季の景色を色で表現する器へと展開しています。北の光のなかで育った色彩感覚が、そのまま器に映っています。
こうして並べてみると、それぞれの土地の歴史や暮らしが、ガラスの表情を作ってきたことがわかります。同じ透明な素材でも、器になるまでの道筋は一つではありませんでした。だからこそ、産地でガラスを選ぶことは、色やかたちだけを選ぶことではないと考えています。その器が、どんな土地の光と産業、どんな時代の必要から生まれたのか。ひとつの器を食卓に迎えることは、その来歴ごと迎えることでもあります。私たちが器を紹介するとき、産地の背景をあわせてお伝えするのは、そのためです。
>関連記事:日本の伝統工芸ガラス、今こそ知りたい全国各地のガラス工芸
なぜ私たちは、ガラスに涼やかさを感じるのか

ガラスの器を夏に選びたくなる理由は、いくつか重なっています。まず、透明であること。中の水や酒、氷までが見え、器そのものが涼しげな景色になります。触れたときのひんやりとした感触や、縁が触れ合うときの澄んだ音も、体感としての涼しさを連れてきます。
透明な素材に清涼感を覚える感覚そのものは、日本に限ったものではありません。ただ日本には、季節をしつらえで表す文化が長くあり、夏に器を替え、簾を掛け、風鈴を吊るすという暮らしの型のなかに、ガラスがうまく収まりました。
江戸の金魚玉から現代の冷酒グラスまで、「夏はガラス」という感覚は、素材の性質と暮らしの文化が重なった場所に育ったものです。
いまの暮らしで愉しむ、ガラスの器
歴史を知ったうえで、あらためて手元のガラスを見てみます。
冷酒を注ぐなら、切子の盃は光の器になります。カットの面が酒を透かし、卓の照明をひろって、晩酌の時間がすこし改まったものになります。素麺や酢の物をガラスの小鉢に盛れば、料理の色が涼しく立ち上がります。一輪挿しなら、花だけでなく水と茎まで景色に加わるのがガラスの持ち味です。
ただ、こうした魅力には、画面越しでは伝えきれない部分があります。透明な器の重さ、口当たり、光の返り方、卓に置いたときの存在感。オンラインで器を届ける私たちが、寸法や容量だけでなく、何を注ぐか、どんな器と合わせるか、どんな時間に似合うかを考えながら紹介しているのは、その伝わりにくい部分を、使う場面の言葉で補いたいからです。
漆や木、錫といった素材の器と組み合わせるのも、日本の食卓ならではの楽しみです。不透明な素材のあいだに透明な一点が入ると、卓の上に抜けが生まれます。漆や木のように、手に触れるほど表情を深めていく素材とはまた異なり、ガラスは光や水、料理との組み合わせによって、その都度ちがう景色を見せてくれます。割れ物として丁寧に扱いながら長く使い続けること自体が、この素材との付き合い方だといえます。
贈り物としてのガラスにも、この素材ならではの性格があります。ガラスの器は、相手の暮らしに「使う余白」を贈れる品です。飾って完結するのではなく、水や酒、花、料理を受け止めて、贈られた人の時間のなかで少しずつ完成していく。切子の盃が節目の贈り物に選ばれ続けているのは、そういう余白を含んでいるからだと考えています。
おわりに|遠い海の素材が、身近な一杯の器になるまで
古代エジプトや西アジアに生まれたガラスは、交易の道を東へたどり、弥生の玉として日本に届きました。祈りと権威の素材として尊ばれ、いちど暮らしから遠ざかり、南蛮貿易とともに技術ごと戻ってきて、江戸の町で盃や風鈴になり、切子の文様をまとい、各地でそれぞれの器に育っていく。ざっと二千年をかけて、ガラスは「遠くから来た特別なもの」から「毎日の一杯を受け止めるもの」になりました。
今夜、ガラスの器に何かを注ぐとき、その透明のなかに、砂漠を越えた碗や、江戸の軒先の風鈴の音が、うっすらと連なっています。歴史を知ってから使う器は、同じ一杯でも、すこし違う味がします。その一杯までの長い道のりを、器とともに届けていくことが、私たちの仕事だと考えています。
この記事について
この記事は、日本各地のガラス工芸を取り扱い、作り手や産地の背景を学びながら、器を使う楽しみを伝える日本工芸堂が編集しました。歴史的な記述は、博物館・公的機関・産地団体などの公開資料を参照して構成しています。
参考
- 東京国立博物館 総合文化展・展示解説(古墳時代のガラス製品ほか)
- 宮内庁 正倉院宝物検索(白瑠璃碗ほかガラス器)


