記事: 【伝統工芸の旅】民藝の気配と職人の息づかいが宿る街、松本(長野)

【伝統工芸の旅】民藝の気配と職人の息づかいが宿る街、松本(長野)
日本各地には、その土地ならではの伝統工芸を受け継ぐ職人や工房があり、日本の文化と暮らしを支えています。日本工芸堂の代表・バイヤーである松澤が作り手を訪ねる「伝統工芸の旅」。今回は長野・松本を舞台に、民藝運動の息づく街並みと、工芸を支える人々との出会いを通して感じたことをお届けします。
目次
お城を守るということ──続けられる職人の手作業
ある夜には、松本城を舞台にプロジェクションマッピングの演出が行われていました。このようなイベント期間に開催されたものです。歴史的建築物に現代の光が重ねられるこの試みは、単なるイベントではなく、伝統と現代をどう結び直していくかという問いにも見えました。
華やかに映るその姿の奥に、長く守り伝えていこうとする地域の静かな意志が息づいていました。松本城を眺めながら、“受け継ぐ”ということの深さに、心を動かされました。
クラフトフェアまつもとで、作り手と出会う
松本の初夏を彩る風物詩のひとつ、「クラフトフェアまつもと」。日本各地から集まった作り手たちが、あがたの森公園にテントを並べ、手仕事の品々を展示・販売するこのイベントは、松本の街に“いまの工芸、クラフト”の息吹を運んできます。
もともと、美濃焼の窯元の方が出展しているという話を聞き、ずっと気になっていたこのイベント。ようやく訪れることができた日、目の前に広がっていたのは、ものづくりを愛する空気に満ちた穏やかな時間でした。
印象的だったのは、作り手たちの姿勢です。ブースに立ち、お客様ひとりひとりに丁寧に作品の背景を語る姿。そのまなざしの中に、手仕事への誇りと、伝えたいという思いが感じられました。
私はそこで、革細工のアイテムをひとつ購入しました。手にしたときの質感や、作り手の話を聞いた後の“ものへの視線”の変化が、心に残っています。
また、毎年来場している常連客と作り手との会話があちこちで交わされているのも印象的でした。それは単なる販売の場ではなく、作品を通じた再会の場であり、交流の輪がゆるやかに広がっているのでしょう。
クラフトフェアまつもとは、流行の発表会でもありません。そこにあるのは、生活に根ざしたクラフトや工芸と、手から手へと伝わるものの温かさです。そして、その温もりが、松本という街の空気とよく似合っていました。
用の美が宿る、松本のカフェと家具
松本家具(まつもとかぐ)は長野県松本市周辺で作られている民芸家具です。この地では、江戸時代より300年もの間、和家具づくりが盛んに行われてきました。1976年、家具業界で初めて伝統的工芸品に指定されています。
松本の街を歩いていて感じるのは、空間の心地よさです。その理由のひとつに、“松本家具”の存在があります。民藝の思想を背景に、使いやすさと美しさを兼ね備えた家具づくりが、この地では長年続けられてきました。
特に印象的だったのは、『八十六温館(ヤトロオンカン)』という喫茶空間です。松本家具の魅力を心ゆくまで堪能できる場所であり、まるで時間がゆっくりとほどけていくような感覚を味わえます。本を読み、思いを巡らせる──そんな贅沢な静けさがここにはあります。
また、街の喫茶店やギャラリーの空間づくり全体にも目を引かれました。木のぬくもりが感じられる椅子やテーブル、そして静かな時間を包み込むような空気感──どれもが、暮らしと寄り添う道具のたたずまいでした。意匠を凝らした装飾ではなく、飽きのこないデザインと実用性が、空間全体に落ち着きと品格を与えているように感じました。
松本のカフェでは、器や椅子、照明のひとつひとつにも作り手の存在が感じられます。日常のなかに溶け込む“用の美”──それが、訪れる人の心を静かにほどくのかもしれません。
クラフトフェアで出会った華やかさとはまた違う、日々の暮らしに根ざした工芸のあり方が、松本には確かに息づいていました。
酒と器の相性──手仕事が味覚を変える瞬間
松本で過ごした夜の記憶は、器によって変わる味覚の体験として、今も強く残っています。手に取る器の素材や厚み、形によって、同じ料理や酒であっても感じ方がまったく違う──そんなことを改めて実感する場面がいくつもありました。
ある居酒屋で供された地酒「大信州」は、素朴な土ものの盃でいただいたのですが、その厚みと口あたりが、酒の丸みを際立たせてくれました。別の店では、薄手のガラスの酒器で「亀齢」を味わい、その涼やかな立ちのぼりに驚きました。味や香りに差があるわけではないのに、うつわが変わるだけで、酒そのものの印象までが変わるのです。
松本の町の飲食店では、料理や酒とともに供される器に、作り手の気配が宿っていることを感じます。量産品ではなく、どこかで誰かが作った器──その背景を想像するだけで、ひと口の味に奥行きが加わります。
偶然出会った地酒イベントでも、地元の蔵元が自慢の一杯を手渡すとき、添えられていたのはやはりこだわりが感じられる酒器でした。器の選び方ひとつに、もてなしの美意識と地元への誇りがにじんでいました。
「器が味を変える」。それは、誇張ではなく実感でした。職人の手仕事が、見た目だけでなく味覚や記憶にまで作用する。そのことを、松本の夜のテーブルが静かに教えてくれました。
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松本民芸館で出会う“用の美”
松本の旅の締めくくりに訪れたのが、松本民芸館でした。市街地から少し離れた場所にひっそりと建つその館は、民藝運動の精神を今に伝える場所として、静かな存在感を放っていました。
館内に入ると、すぐに気づくのは展示物が“見せるため”の品々はないということです。柳宗悦が提唱した「用の美」という思想──使われることでこそ美しさが宿るという価値観が、この空間のすみずみにまで行き渡っていました。
並ぶ家具や器、織物や道具は、どれもが生活の中で実際に使われていたものばかり。それらは“鑑賞される作品”というよりも、“暮らしの中の伴走者”とでも言うべき存在です。例えば、傷の入った茶碗、すり減った木椅子、煤けた収納箪笥。そこに宿る手ざわりが、見る者に静かに語りかけてきます。
松本は、民藝運動が根づいた象徴的な街のひとつです。この民芸館があること自体が、街のアイデンティティのようにも感じられました。そしてそれは、今も市内のカフェや暮らしの風景に通底しています。
モダンなインテリアや大量生産品にはない、“人が手をかけて育てたもの”の価値──それを感じる原点のような場所が、松本民芸館にはありました。ここを訪れて初めて、街中に漂う“用の美の気配”の出どころが、深く腑に落ちたのです。
暮らしに宿る美しさ。松本の旅で繰り返し出会ったその感覚が、この小さな静謐な空間で、あらためて輪郭をもって感じられました。
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まとめ:また来たくなる理由
今回の松本の旅は、工芸を“見る”のではなく、“感じる”ことの連続でした。目で見る美しさだけでなく、手ざわり、温度、音、静けさ──そんな五感すべてが、街に息づく工芸とつながっていました。
どこかに特別な“体験”を求めていたわけではありません。けれど、歩く道には松本家具があり、座る椅子には手仕事があり、飲む器には作り手の気配がある──そんな日常のなかに、工芸が“生きている”ことを感じる瞬間が何度もありました。
松本は、訪れるたびに発見がある街です。そしてその発見は、いつも静かでやさしい。「また来たくなる」のは、きっとそのやさしさに触れた記憶が、心のどこかにずっと残っているからなのだと思います。
文化の香りが漂い、どこか肩の力が抜けるような居心地のよさがある街──それが松本です。美術館やカフェ、老舗の家具店に囲まれた小道を歩けば、静かに暮らしに溶け込む“民藝の気配”がそこかしこに感じられます。
「見せるため」ではなく「使われるため」のものづくり。その哲学が、生活の中で自然に根づいているこの街には、一度訪れただけでは味わいきれない奥行きがあります。だからこそ、季節ごとに、あるいは気分に応じて──また来たくなる。
暮らしと美がさりげなく重なりあう街、松本。ここで出会った工芸たちは、私のなかの“日常の眼差し”を、確かに変えてくれたように感じています。
実際に訪ねてみたくなった方へ。
工芸の気配が宿る松本の、とっておきの場所をご紹介します。
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松本民芸館
市街地から車で約10分。バスでもアクセス可能です。
民藝運動の精神を今に伝える、静かな学びの場です。
▶︎ 松本民芸館 公式サイト -
クラフトフェアまつもと(あがたの森公園)
毎年5月下旬に開催される、日本有数のクラフトイベント。
作り手と語らいながら、工芸の“いま”に触れられます。
▶︎ クラフトフェアまつもと 公式サイト -
八十六温館(やとろおんかん)[松本ホテル花月内]
松本家具に囲まれた、静けさと読書のための喫茶空間。
宿泊者以外も利用可能で、ゆるやかな時間が流れています。
▶︎ 八十六温館|松本ホテル花月公式サイト