記事: 清峰堂を訪ねて|九谷焼と江戸硝子をつなぐ九谷和グラス

清峰堂を訪ねて|九谷焼と江戸硝子をつなぐ九谷和グラス
石川県産業創出支援機構(ISICO)のご紹介で、輪島塗をはじめとする五つの工房を訪ねていました。その旅の締めくくりに向かったのが、能美市の清峰堂株式会社です。九谷焼と江戸硝子を組み合わせた「九谷和グラス」を生み出した会社で、日本工芸堂でもすでにお取り扱いをしています。
今回はご挨拶と工房の視察を兼ねた訪問での対話を終えて最も心に残ったのは、清水則徳社長の話がいつも「九谷焼」と「産地」の未来へ戻っていくことでした。
清峰堂を訪ねて
到着すると、まず一階の展示スペースへ案内していただきました。日本工芸堂でお取り扱いしている品々に加えて、開発中の新しい商品も並んでいます。いまも歩みを止めずに商品開発を続けている会社なのだと、最初の数分で伝わってきました。
打ち合わせは二階の商談室です。壁際には九谷焼の美術品や大きな花瓶が並んでいました。いずれも、いまではもう作ることのできない品々だと伺いました。かつての九谷焼が担っていた仕事と、これからの九谷焼が向かう先。その両方に囲まれるようにして、清水社長のお話を聞くことになりました。

商談室から望む風景(2026年、著者撮影)
暮らしから遠ざかる九谷焼
商談室に並ぶ大きな花瓶からは、かつて九谷焼が担っていた姿が見えてきます。ここからは、清水社長に伺ったお話と、J-Net21やISICOに掲載された過去の取材記事をもとに、九谷和グラスが生まれた背景をたどります。
清峰堂の創業は1964年。清水社長のお父様が興した会社で、当初は産地の商品を仕入れて販売する卸売業が中心でした。大きな花瓶、陶器の獅子の置物、絵皿。そうした高額品を、大手百貨店や高級品を扱う小売店へ卸していました。
事業は経済成長とともに伸びていきます。バブル期には、人間国宝をはじめとする作家の高額作品が次々と売れ、倉庫に積まれた商品を毎日のようにトラックが運び出していたといいます。一方、清水社長は、何百万円もする作品が日々売れていく状況を、長くは続かないものと見ていました。
その見立てどおり、バブル崩壊後、高額商品の売れ行きは急減します。さらに、床の間や畳の部屋を持たない家が増え、新築祝いに花瓶や絵皿を贈る習慣も次第に細っていきました。清水社長は、こうした記念品の需要が今後さらに減っていくと考え、九谷焼を生活の中へ溶け込ませる商品づくりを模索します。九谷和グラスの出発点には、暮らしの変化に対する早くからの危機感がありました。
九谷焼と江戸硝子をつなぐ
きっかけのひとつは、思いがけない依頼でした。東京のトロフィーや楯を扱う企業から、ガラスと九谷焼を組み合わせた楯を作ってほしいという注文が入ります。難しいとは考えず、接着剤で貼り合わせて納品した。
ところが納品から三か月ほどで接合部分が外れ、取引先からクレームが寄せられました。磁器と異素材を接合することの難しさに、このとき初めて気づいたといいます。
工業用の接着剤ではだめだ。では、何でつなげばいいのか。清水社長は石川県工業試験場に相談し、大学の研究室にも足を運びました。清水社長が学生時代に無機材料を専攻していたことも、そこで生きました。当時指導を受けた先生が大学の研究室に残っておられたため、出張の折に訪ね、研究のヒントを得ることもあったそうです。その後も試行錯誤を重ね、長い時間をかけて独自の接合技術を確立しました。
ちょうどそのころ、飲み物の色が見える九谷焼ができないか、という提案が寄せられていました。台座に色鮮やかな九谷焼を配し、グラス部分には江戸硝子を用いる。こうして生まれたのが「九谷和グラス」です。接合技術の詳細は企業秘密とのことですので、ここでは立ち入りません。

産地の常識の外へ
九谷和グラスは、完成してすぐに受け入れられたわけではありませんでした。展示会に出しても、バイヤーの反応は渋い。当時、陶磁器と金属やガラスを組み合わせた商品は各地で作られていたものの、接合部が外れるクレームが絶えず、異素材の組み合わせには懲りたという印象が定着していたのです。十分な強度があると説明しても、当初はなかなか信用してもらえなかったといいます。
転機は、2006年度のグッドデザイン賞でした。受賞を機に、意匠の美しさとともに、異素材をつなぐ接合技術の優位性も理解されるようになりました。言葉でいくら説明しても伝わらなかったものが、外部の評価をきっかけに、ようやく理解され始めます。九谷和グラスは現在、ワインにも日本酒にも合うグラスとして、同社の主力商品になっています。
その後、清峰堂は自社で窯を持ち、卸売業からメーカーへと転換していきます。九谷焼の産地には、素地をつくる窯元、上絵付けを担う職人や事業者、商品を企画・販売する卸売業者という分業体制が根づいてきました。しかし他地域同様に工芸産地の力が細るなかで、期待する生産を担える窯元は減っていた。
新しく窯を持つことには産地からの反発もあり、生地を提供してもらえない困難から、一時は窯を閉めた時期もあったといいます。再開したのは2010年代のこと。従来の九谷焼とは異なる商品として、産地内で厳しい見方をされることもあったそうです。それでも、皆が同じものを作って価格競争を続けていては、産地に未来はない。清水社長はそう考え、独自の道を進み現在に至っています。
商談室でこの話を伺ったとき、社長は失敗も反発も、淡々と話されていました。同社の取り組みは、のちに経済産業省の「元気なモノ作り中小企業300社」にも選定されています。
話は、いつも九谷焼に戻る
二階の商談室での対話は、二時間ほどに及びました。話題は、会社の歩みから、現在の生産体制とその見直し、開発中の新商品まで。卸売から出発した会社が、時間をかけて技術と生産体制を培い、自社の商品を生み出す会社へ変わっていく道のりです。
聞いていて気づいたことがあります。過去の名品について話すときも、新商品の生産効率について話すときも、話の主語がたびたび「九谷焼」や「産地」に戻るのです。自社の商品をどう売るか、という話だけで終わらない。
清水社長は九谷焼の技術継承にも取り組んでいます。九谷焼には、窯元や絵付師の家ごとに受け継がれてきた技術があります。家業を継ぐ人が減れば、それぞれの家に蓄積された技術も途絶えかねません。そこで、作家や職人同士が技術を教え合い、映像として残す取り組みを進めているといいます。
その根底には、自分たちも370年にわたる九谷焼の歴史の一端を担っており、その技術を次の世代へ渡さなければならないという意識があるのではないでしょうか。九谷焼は明治期、欧米向けの輸出品として人気を集め、「ジャパンクタニ」の名で収集家に求められた歴史を持ちます。
清水社長は、「ジャパンクタニ」が国内外で再び評価される未来を見据えています。商談室に並んでいた、いまでは作れない品々。それを過去の名品として眺めるだけではなく、そこに蓄積された技術を、これから作るものへどうつないでいくか。過去の技術を、これから生まれるものへつなぐこと。そのことに、清水社長は向き合っているのだと感じました。
対話のあと、工房を一巡してご案内いただきました。商談室で伺った話が、実際の設備と地続きにあることを確かめられた時間でした。
写真;清峰堂本社前にて、清水社長(右)と
九谷焼をもう一度暮らしの中へ
九谷和グラスの成り立ちをたどると、変わりゆく暮らしのなかに、九谷焼の新しい居場所をつくろうとした商品なのだと理解できました。床の間が減り、花瓶や飾り皿が贈られなくなっても、食卓には日々グラスが置かれる。そこへ九谷焼を連れていくという発想ではないでしょうか。
清峰堂の二階には、現在では作ることのできない過去の九谷焼がありました。一階には、開発中の新しい商品が並んでいました。ひとつの建物のなかに、歴史ある技術と、次の形を作ることの両方がある。伝統を次へ渡すためには、変えずに守るものと、暮らしに合わせて変えていくものがあるのでしょう。清峰堂を訪ねた時間は、そのことを考える旅になりました。
取材・参考資料
本記事は、2026年7月の清峰堂株式会社訪問時に伺った内容と現地での見聞を中心に、以下の公開資料を参照して構成しました。
- J-Net21「産地の危機回避へ サブスクで販路開拓に挑戦『清峰堂株式会社』」(2024年10月21日)
- 公益財団法人石川県産業創出支援機構(ISICO)「九谷焼とガラスを一体化 販路拡大の切り込み役に」
- 清峰堂株式会社
取材協力:清峰堂株式会社・清水則徳代表取締役


