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記事: 川が育てた工芸|三つの川と産地のものづくり

川が育てた工芸|三つの川と産地のものづくり
#工芸の視点

川が育てた工芸|三つの川と産地のものづくり

水害と水運が結んだ阿波藍・燕三条・筑後川のものづくり

伝統工芸の産地をたどると、その背景に一本の川が流れていることがあります。ときに暮らしを脅かし、ときに作物や素材、品物を運んできた川。三つの流域から、川と工芸の関わりをたどります。

川は、なぜ工芸と結びつくのか

工芸の産地を訪ねていると、思いのほか頻繁に「川」の名前に出会います。氾濫によって田畑や暮らしを苦しめた川は、一方で、その土地に合う作物を選ぶ理由になり、農閑期の仕事を支え、原料や品物を運ぶ道にもなりました。

洪水に備えて選ばれた作物。農民の副業から始まった金物。上流の木材を下流の木工産地へ運んだ水運。川と工芸の関係は、土地ごとに異なります。

本稿では、氾濫原という土地条件が阿波藍の栽培を支えた吉野川、洪水に苦しむ農民の副業として始まった鍛冶仕事が燕三条の金物産地へ育った信濃川・五十嵐川、そして流域の綿花と藍、上流の杉、水運が結びついた筑後川を取り上げます。


吉野川と阿波藍|氾濫原で育った、稲に代わる作物

藍甕を成形する職人(左)と、森陶器に並ぶ大谷焼の甕(右)(2023年、筆者撮影)

吉野川は、江戸期を通じて無堤防地帯が多く、稲作にはたびたび大きな被害をもたらしてきました。ところが藍(タデアイ)は台風シーズン前の夏に収穫できるため、洪水の被害を受けにくい作物でした。洪水が運ぶ土砂によって、藍に起こりやすい連作障害を避けやすかったともいわれます。米づくりには厳しい土地条件が、藍作には適していたのです。

蜂須賀家の保護奨励もあり、藍作は江戸後期から明治期にかけて大きく広がりました。明治36年(1903年)頃には、作付面積は約1万5,000町歩に達したとされます。徳島県は作付面積・生産量ともに全国の過半を占めた時期があり、阿波藍は全国の染織を支える産業になりました。

鉄道のない時代、この藍を全国へ運んだのが吉野川の舟運でした。脇町(現・美馬市)などの川湊は、上流と下流をつなぐ集散地として栄え、藍商人たちは大きな富を築きました。今も残る「うだつの町並み」は、その繁栄を伝えています。

私自身は、吉野川の藍畑や川湊をまだ訪ねられていません。ただ、藍という産業の規模を実感した場所はあります。徳島の大谷焼です。大谷焼は、藍商人・賀屋文五郎が1784年に築いた窯をルーツとし、藍染めに使う巨大な「藍甕」を多く生産してきました。

私が訪ねた窯元の一つ、森陶器では、国の登録有形文化財である登り窯を前に話を伺いました。一房は奥行約7.4メートル、幅約2.8メートル。それを八つ連ねた、全長約28メートルの大きな窯です。

藍甕という一つの道具のために、これほどの規模の窯業が育った。その事実に、藍産業の裾野の広さを感じました。藍の原料である「すくも」を実際に目にしたのは、後述する久留米絣の工房でのことです。吉野川自体は、いつか歩いてみたい場所として残っています。

かつてのように一面に藍畑が広がる光景は、いまでは限られたものになりました。それでも、栽培から染めまでを学ぶ取り組みや、藍を使う人びとの仕事を通して、その技術は受け継がれています。

関連記事:藍染は、なぜ日本の色になったのか|ジャパンブルーの歴史と工芸の視点


信濃川と燕三条|氾濫からはじまった、金物のまち

燕市の田んぼ越しに望む信濃川と弥彦山

燕市の田んぼ越しに、信濃川と弥彦山を望む(2025年、筆者撮影)

三条の鍛冶は、1625年頃、代官・大谷清兵衛が五十嵐川の氾濫に苦しむ農民の副業として和釘づくりを奨励したのが始まりとされています。1661年に会津から鍛冶技術が伝わると、製品は釘から鎌・鋸・庖丁へと広がりました。

燕もまた、信濃川の氾濫に苦しむ農民の副業として和釘づくりが始まったとされています。明治初期には、燕の産業の8割を釘生産が占めた時期もありました。その後、鎚起銅器や煙管づくりの技術が加わり、金属加工の産地として厚みを増していきます。

原料や製品は、信濃川・五十嵐川の水運によって内陸と港を結び、各地へ運ばれました。氾濫に苦しめられた川は、産業を外へ開く道でもあったのです。

写真:燕市産業資料館に地域産業の歴史が詳細に示されている

以前、燕市産業資料館を訪ねたことがあります。中ノ口川(信濃川の分流)沿いに建つこの施設は、橋を渡ってアクセスする立地そのものが、川と産業の距離の近さを物語っていました。館内には、和釘の時代から金属加工の技術がどのように広がっていったかを示す展示が並びます。

今の燕三条では、舟運はすでに役目を終えています。毎年秋に開かれる「燕三条 工場の祭典」では、普段は一般公開されない工場が開かれ、来訪者は職人の技や仕事場に触れることができます。副業として始まった金物づくりは、いまも地域の仕事として息づいています。

>関連記事:燕三条の金属加工は工芸品か?その歴史とものづくりの精神


筑後川と久留米絣・大川家具・日田下駄|ひとつの川が育てた、三つの工芸

筑後川の風景

筑後川(2026年夏、筆者撮影)

筑後川の事例では、一つの工芸の起点をたどるだけでは足りません。上流から下流までの流域に目を向けると、異なる素材と仕事が、川を介してつながっていたことが見えてきます。

久留米絣は、筑後川流域で盛んだった綿花栽培と、藍染めの仕事を背景に育ちました。江戸後期に井上伝が考案した絣の技法は、やがて筑後地方の農家の副業として広がっていきます。

先日、久留米絣の工房を訪ね、藍の原料である「すくも」の現物を見せていただきながら説明を伺う機会がありました。すくもは藍の葉を発酵させてつくる染料の元です。手間のかかる工程を経て、ようやく織物の色になる。そのことを、実物を前にして初めて実感しました。

久留米絣は1957年、木綿の織物として初めて国の重要無形文化財に指定されています。生産量は往時に比べて減っていますが、技術を守る仕事とともに、小物やインテリアなど現代の暮らしに寄り添う品もつくられています。

筑後川の下流、有明海に近い大川は、上流の日田から流れてくる木材の集積地であり、海運の要衝でもありました。船大工たちの木工技術から家具づくりが生まれ、これが大川家具のルーツになったといわれています。

日田では、職人の方に短い時間ながら話を伺うことができました。上流に杉が豊富にあり、それが下流の産業の源になったというお話は、資料を読むだけでは得られない実感として残っています。日田は筑後川上流の良質な杉の産地で、天保年間には天領の産業振興策として下駄づくりが奨励されました。日田下駄は、今も三大産地の一つに数えられています。

筑後川は、いまも大雨のたびに流域の人びとに水害への備えを求めます。その川のそばで、人びとは木材を運び、絣を織り、暮らしを続けてきました。

上流では杉と下駄づくりが、下流では木工の技と家具づくりが、流域では綿花や藍の栽培が育ちました。土地の条件に、人びとの工夫や技術、水運が重なって、それぞれの仕事が形になったのです。

>関連記事:久留米絣のおしゃれなもんぺとは?久留米絣ってなに?


まとめ|川は脅威であり、ものづくりをひらく道でもあった

吉野川の藍、信濃川・五十嵐川流域の金物、筑後川流域の絣・家具・下駄。川は、産地ごとに異なるかたちで仕事に関わってきました。

事例 川がもたらした土地条件・課題 川との産業的な関わり
吉野川・阿波藍 氾濫原での稲作の不安定さ 藍作と川湊を中心とした商い
信濃川・五十嵐川・燕三条 洪水被害と農家の副業 原料・製品を水運につなぐ
筑後川・久留米絣ほか 綿花・藍の育つ流域、上流の森林資源 日田の木材を大川へ運び、木工産地を支える

川は、人の暮らしを脅かす存在であると同時に、土地の条件に応じた仕事を生み、原料や品物を運ぶ道にもなってきました。工芸は、自然に一方的に形づくられたものではありません。その土地で暮らした人びとが、川の恵みと厳しさの両方に向き合いながら、積み重ねてきた仕事の跡です。

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