小鹿田焼とは。「世界一の民陶」と称された”日田の焼き物”特徴と歴史
「世界一の民陶」と称された大分県日田市にある小鹿田焼の里。小鹿田焼の特徴や歴史、製造方法などをまとめてみました。
小鹿田焼(大分県日田)とは
大分県日田市の中心部から北へ17kmほどの自然豊かな山間で生まれたの小さな集落に「小鹿田焼」の里があります。小鹿田焼は、大分県日田市(ひたし)で300年間、受け継がれてきた伝統的な焼き物です。技術の伝承は、親から子へと受け継がれる一子相伝の世襲制で、現在の窯元は開窯時からの流れを汲んだ10軒のみ。
他の産地では需要期を迎えた際に機械化が進んだが、小鹿田焼では、すぐ近くにある山の土を原料にし、川の力を借り、家族全員が参加しながら、すべての工程を手作業のみで行っています。焼き物の原料の土は川の流れを利用した唐臼(からうす)でくだき、ろくろは足で蹴って回します。窯は地元日田の薪を使って焼きます。
出来上がった焼き物は素朴な幾何学模様が特徴で、手にするとほっとする色味と風合いで温かみが感じられます。手に馴染む温かみや、暮らしに自然に溶け込む魅力があるのは、長く続いてきた歴史と伝統があるからではないでしょうか。
九州では小石原焼(福岡)や龍門司焼(鹿児島)に並ぶ歴史の長さを持ちますが、今も守る独特の継承システム・製法がこの焼き物を守り続けています。これらのことが昭和初期の思想家、柳宗悦により「世界一の民陶」と絶賛され、その名が全国に知れ渡りました。
川の水を利用し、ししおどしの原理で陶土を打ち砕く唐臼(からうす)の音は、川のせせらぎとあいまって小さな集落に響き渡ります。その視覚と聴覚への刺激は、心の奥深くまでしみ渡る感覚です。その風景は『残したい日本の音風景100選』に選ばれ、皿山・池ノ鶴地区を含む「小鹿田焼の里」の景観は国の重要文化的景観にも選定されています。
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日田・焼き物、小鹿田焼の歴史
小鹿田焼のルーツは九州の陶芸の発展の歴史と関係しています。
小鹿田焼の兄弟窯と言われる小石原焼は、1682年に筑前福岡藩・3代目藩主が磁器の生産が盛んだった伊万里にならい、焼き物を作り始めたのが起源とされています。1669年から同地で茶陶を手がけていた高取焼との交流により発展し陶器が作られるようになりました。
時期を経ず、宝永2年(1705年)に小石原村 (現在の福岡県朝倉郡東峰村) から小石原焼の陶工、柳瀬三右衛門を招き、小鹿田皿山 (現在の大分県日田市)に登り窯を築造したことが小鹿田焼のはじまりと言われています。
当時繁栄していた江戸幕府直轄領、日田の代官の命により、領内の日用的陶器の需要をまかなうのが主な目的でした。いずれにしても小石原焼と兄弟窯と言われてる所以はここにあります。招いたのが黒木氏、土地を貸したのが坂本氏、柳瀬氏と三家をルーツとして今でも一子相伝を継続しています。
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小鹿田焼が脚光をあびるきっかけとなった理由、民藝運動
今では伝統的な民陶として日本全国に知られている小鹿田焼。小鹿田の皿山地区は、明治以降、農業ができない時期に窯業を扱う半農半陶(はんのうはんとう)で生計を立ていましたが、これは民藝運動のころまで続きました。大分県の山間でひっそりと作られていた陶芸品が、脚光を浴びるきっかけとなったのが大正時代に始まった民藝運動です。
無名の職人の手によるものづくりの中に美しさを見出す民藝運動には、陶芸家の河井寛次郎や濱田庄司らが参加。そのなかでも中心人物であった柳宗悦は、自身の著書『日田の皿山』(1931年) で「世界一の民陶」と小鹿田焼を称賛し、世の中へ認知が高まるきっかけとなりました。
同じく運動に加わっていたイギリス人の著名な陶芸家バーナード・リーチは小鹿田の皿山地区を訪れ、約一月近く滞在しました。製作活動にいそしむとともに、小鹿田焼の職人たちにピッチャーのハンドル付けなどの陶芸技術や、陶芸を生業するための心構え伝えていきました。このころの民藝運動のうねりの中で、小鹿田焼の名は全国へ広まっていきました。
1970年3月に国の無形文化財として指定を受けたことも、さらに知名度を上げるきっかけとなりました。1975年ころにはすべての窯元が専業化し、現在も生活の道具としての工芸品を製作し続けています。
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小鹿田焼の特徴(ブランドの共同体・飛び鉋など)
産地全体や数点の特徴を記載してみたいと思います。
特徴1、小鹿田焼のブランド共同体
一子相伝ということは前述しましたが、外部から職人を雇わず全ての作業工程を家族が担っていることも大きな特徴です。さらに、窯元は作品に個人名を入れたりせず、基本的に価格差をつけず、小鹿田焼のブランドを共同体となって守っています。
製造工程は全て家族の労働によってまかなわれています。土練り、ろくろ挽き、窯炊きなど力と、技を要する作業は主に男性が担います。窯元の家族は老若男女一体となり仕事を分担し役割を担っていきます。機械を使わない、職人を雇用しない、弟子をとらないといった手法、しきたりが守られ続けています。
家族だけでなく、他の窯元に不測の事態があっても産地全体で補いあうという習慣が継続されています。厳しい自然環境のなかで伝統を守りつつ生産を絶やさないことがアイデンティティーを確立させ、産地をひとつの連合帯と見いだせる所以かもしません。
特徴2、3つの技法「飛び鉋 (かんな) 」「刷毛目(はけめ)」「流しかけ」
小鹿田焼の器の特徴は「飛び鉋(とびかんな)」や「刷毛目(はけめ)」「流し掛け(ながしかけ)」など蹴ろくろを回しながら、美しい模様をつけていく装飾技法です。
装飾技法の特徴を少しご紹介いたします。
・飛び鉋 (とびかんな)
型作りした器に、ろくろを回しながらL字型鉋(かんな)をあて表面を削り模様をつけていきます。横で見ているとあっという間に図柄が出来上がりますので驚きます。この技法は中国・北宋時代の陶器に見られ、昭和初頭にかけて日本でも取り入れられました。
・刷毛目 (はけめ)
ろくろを回しながら、化粧土をつけた刷毛を小刻みに打ちつけて模様をつけます。朝鮮・李朝より伝わった技法。
・流しかけ
スポイトなどに化粧土や釉薬を入れ、一定の高さから垂れ流すようにかけて模様をつける方法
技法を一人前にできるようになるまでに、10年の修行が必要とのことです。難しい蹴ろくろを扱いながら、あっという間に装飾してしまうのを見ると職人の高い技量がうかがえます。
かつては、生活雑器を焼く産地ではありませんでしたが、人々のライフスタイルや社会の変化に伴い、供給する品も変わっていきました。そして現在のような食生活に合う食器がスタンダートなっています。
飛び鉋 (とびかんな)などの図案を実現するための道具
特徴3、300年一子相伝で守られる技法
小鹿田焼の技術の伝承は、親から子へと受け継がれる「一子相伝(いっしそうでん)」の伝統を守りつづけています。どのような技法が受け継がれているのでしょうか。
自給自足の土と釉薬
小鹿田焼の原土(陶土)は、すべて集落周辺の山からの調達です。小鹿田皿山は、集落全体の地質が厚い陶土層で形成されていて、表土を少し掘り下げれば陶土を掘り出すころが可能です。まずこれが焼き物の原料となります。
現在窯元の共同作業は、年2回の土堀だけです。採掘された原土は等分に分けられ、以降は各窯元の作業に委ねられます。
運び出された土は、機械を使うことなく、集落を流れる川の力を動力にして唐臼(からうす、以下写真)で動かします。唐臼で動かし20~30日ほどかけてパウダー状になった土は、次の工程に移ります。
ゴミを取り除くために水簸(すいひ・写真下)で泥水をふるいで何回もこし、水抜きをして天日で乾燥させて陶土にしていきます。これらすべての工程を手作業のみで行っていきます。
釉薬の原料である灰も自然の植物灰にこだわり地元のものを自家生産しています。地元の素材をこれだけこだわって活用している産地は珍しいです。
蹴ろくろでの成型
今では少なくなった足で蹴ってまわす、蹴ろくろを使い、昔と変わらない技法で作られています。電動ろくろより扱いが難しく、上半身と下半身のリズムを合わせ、土の様子をみながら成型していく高い技術が求められます。
写真:足下を見るとろくろを右足で蹴っています。
登り窯(のぼりがま)による焼き
小鹿田焼は「登り窯(のぼりがま)」と呼ばれる階段式の窯で焼かれます。小鹿田皿山では現在10軒の窯元のうち5軒が共同窯、残りの 5軒が個人窯を使用しています。
集落の中央にある八袋の登り窯の共同登窯には下部にある火口窯(燃焼室)と八つの袋(燃焼室)があります。最下部の焚口から順次焚き上げていき、徐々に上の段の袋に上がっていく構造です。
1番目の袋が約1250度に到達後、2番目から最後の袋まで焚き上げます。火が入るのは約2か月に一度程度。一旦窯に火を入れると窯元のみなさんは約3日交代で窯の火の番をすることになります。
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何度か伺った、窯元の1つの小袋さんは共同窯ではなく専用窯が家の敷地内にあります。家族で交代しながら24時間体制で10分おきに薪を入れ火の調整をしていくそうです。薪を入れていく作業では、窯の温度を見ながら薪の燃え具合や気候の変化を感じながら調整していきます。
・ 「薪の大きさも1つ1つ違うので温度が上がる速度も変わる、体験して覚えていくしかないのです」
・ 「窯には奥と手前とあり、温度のバランスをとるのが難しいです。奥の温度が先に上がると、全部そちらに炎が行くので手前の温度が上がらなくなってしまいます」
・ 「温度の上がる過程では窯自体のレンガの収縮もあり、それによって火の通り道がいつもと違ったりします」
このようにマニュアルにはし切れない作業の連続で、ものづくりには長い経験値が必要なことを感じさせます。
(写真:この日はある新聞社の取材協力を当社側でアレンジしました)
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小鹿田焼と小石原焼との違いは?
兄弟窯呼ばれる小石原焼と小鹿田焼。2つの民陶にはどのような違いがあるのでしょうか?
1つの大きな違いは原料として使われる土です。小鹿田焼に使われる土の方が、小石原焼の土よりも黒みがあると言われています。両産地の技法である「飛び鉋(とびかんな)」で比較すると、小鹿田焼の方がより鋭角な切り込みを入れることができ、白い焼き面に施される紋様がより際立っています。
小鹿田焼の陶土の特徴は、きめ細かくコシが強く、粘りもあるが、伸ばしにくい難点があると言われています(以下、写真)。きめが細かく、収縮率も大きい為、割れやすく成形の際に土を締めにくく、底部が割れやすい性質があります。
壺、大皿とも割れることへの対策から底部が小さく作られるうえ、耐火度が弱いため、焼成時にへたりやすくのです。そのため鉢と言えるような深い傾斜の焼き物が出来上がる傾向にあります。このことは、江戸期から現代の品にまで共通した特徴であり、兄弟窯である小石原焼の物と区別する際の目安と言えます。
小石原焼とは?
小鹿田焼のルーツでもあり、兄弟窯と呼ばれているのが小石原焼(こいしわらやき)です。小鹿田焼よりも少し早い時期に開窯し、約350年間続いてきました。現在の窯元は50以上。
小鹿田焼と同じく「トビカンナ」や「ハケメ」などの伝統技術は守りながらも、より現代の食生活に合うデザインを取り入れているのが特徴です。窯元ごとに独自の思いでつくり出されているのが小石原焼であり広がりを見せています。
昭和の初期までは、共同の登り窯で大型の鉢や皿や甕、すり鉢などの製作をしていました。バーナード・リーチや柳宗悦ら民藝運動の中心者が来た際、絶賛したことで脚光を浴びました。この点は小鹿田焼とほぼ同じ道筋を辿っています。
民藝ブームから小石原焼を求めに村へ訪れる人も増え、世襲制だった窯が、人材を集めはじめました。需要が増えたことで出荷量も増え、窯元が50以上に増え、伝統技法が現在に引き継がれているという背景があります。この発展の経緯は小鹿田焼と異なる点です。
「小鹿田焼の里」に訪れる水害を乗越えた陶器市の今
自然とともに歩み続け、今でも変わらぬ工法を継続している小鹿田焼ですが、継続できる背景には自然との共存するがゆえの課題もあります。
小鹿田焼の里に定期的に訪れる水害
2016,17年に九州北部地方を襲った豪雨で、甚大な被害を受けた現実があります。唐臼(からうす)が数基流され、陶土の採掘も厳しい状況にあったようです。一時は濁流のため交通も遮断され動きが取れないほどの状況となりました。
その後、しばらくしてある窯元さんを訪れた際に聞いたコメントです。
「九州北部豪雨の際は大量の土砂が流れ込み、山から水がこなくなったり、唐臼(からうす)が壊れてしまったりと大変でした、、自然の恵みを受けて作っていますから仕方がないです、、」
対策を立て適応している姿に力強さを感じました。長く続いてきた歴史と機械を使わず手作りの伝統を守り続ける道を選んだ窯元の皆さんは助け合い、励ましあい、自然を受入れ、長い歴史のひとつとして、乗り切っていくのだと思います。
そして今でも変わらず小鹿田焼の製作が行われています。
陶器市、小鹿田焼民陶祭
小鹿田焼と小石原焼の魅力を最大限に楽しむならやはり現地を訪れるのがいいでしょう。NHKはじめテレビ局の多くが秘境の産地と特集を組む理由を体感することができるはずです。
他の産地にはない、陶芸の里の素朴さと力強さの雰囲気を肌で感じることができます。特に陶器市では、すべての窯元さんが陶器を直接販売されています。
小鹿田焼民陶祭は、大分県日田市源栄町皿山の「小鹿田焼の里」で毎年10月第2週に行われています。
開催の理由は自然とともに歩むこの地の根底にある考えに基づいています。それは一年間働いた窯に感謝し、道祖神への祈りを込めたお祭りです。そして窯元たちが小鹿田焼の今後の発展と伝統を守り続けることを誓うためのものでもあります。
開催期間はこの日のために焼いた作品を工房や軒先などにぎっしりと並べられ、お客様を出迎えます。大分や別府、福岡、佐賀、さらには東京や大阪など遠方から来る小鹿田焼ファンに楽しんでもらう場になっています。
小鹿田焼、”小鹿田の里”の場所
小鹿田の里は日田市から北へ17キロ。大分県日田市源栄町皿山。日田市街から小野川の清流に沿って小野地区の田園地帯を約10キロ登りつめると小鹿田の皿山があり、峠を越えて西へ約2キロのところに小鹿田の集落はあります。標高400m強。
日田耶馬溪英彦山固定公園の南西部の一角です。地理的には北部九州のほぼ中央にあり、兄弟窯の小石原焼へは北西へ25キロ程度あり車でないとアプローチが難しいでしょう。
小鹿田焼陶芸館のご紹介:小鹿田焼の保存と伝承を目的とし、平成24年に全面的リニューアルされました。小鹿田焼の手法や作品の歴史などを知ることができます。小鹿田焼の里で、小鹿田焼の素晴らしさをぜひ満喫してみてください。
【ご案内】
開館時間:午前9時から午後5時
休館:水曜日、年末年始
住所:日日田市大字鶴河内(源栄町)138番1
URL:こちらから詳細をご確認ください。
スタッフが語る、”小鹿田の里の歩き方”
日本工芸堂スタッフが商談や取材で何度か小鹿田の里に訪れた経験から、”小鹿田の歩き方”をご説明してみたいと思います。時間軸で記載してみますので訪れる際のご参考にしてみてください。- おそらく、小鹿田焼の里には車で到着することになると思います。まず、道なりに登り切った先に上記の看板があります。
- そのすぐ先が小鹿田焼陶芸館です。
- 最初に訪れた際はこちらに行って小鹿田焼きの歴史や製造方法の説明を学んでみましょう。全体感を掴むことができます。
- 一通り小鹿田焼につて理解が深まったら、少し休んで歩き出しましょう。ゆっくり歩いてくだっていきましょう。
- そうすると両サイドに登り窯や製作工房、唐臼が見えてくるはずです。
- ほぼ全ての窯元さんに売店があります。そこでこだわり点や特徴を聞きながらさらに理解を深めてみましょう。ただし、許可のない工房などへの立ち入りや製作を止めるよな行動は慎みましょう。
- 窯ごとの違いを見比べてお皿や花瓶、コップなど、小鹿田焼を選んでみましょう。
- 大きさ・色味が多少異なるという理由で販路に出なかった品、掘り出し物が見つかるかもしれません。
- 帰路にきっと後悔しますので、いいなと思ったら迷わず購入です!
- 焼き物選びとともにそこに流れる風や空気、自然の風景を十分楽しみましょう、忘れられない思い出になるはずです。そしてまたきっと訪れたくなる場所になることでしょう!
>取り扱い小鹿田焼のページはこちら
工房併設の販売所の様子
九州のその他の工芸品
九州には小鹿田焼の他に様々な工芸品の産地が存在しています。いくつかの伝統工芸品をご紹介いたします。
佐賀県の伝統工芸品、有田焼
佐賀県有田町で脈々と受け継がれてきたこの焼き物は、発祥から400年以上経つ日本の伝統工芸品の一つです。磁器らしく透き通るような白い素地を持ち、様式によっては鮮やかな絵付けが魅力で、洗練された雰囲気を持っています。豊かな自然に囲まれた土地から国内外へと広く愛されてきた伝統の美は、私たちの心を惹きつけてならない品々を産み出しています。
詳細はこちら
鹿児島県の伝統工芸品、薩摩切子
「切子」と言われて頭に浮かぶのは「江戸切子」と「薩摩切子」ではないでしょうか。1mm以下の薄い色ガラスを被せ、鋭角にカットを施す江戸切子に比べ、薩摩切子は2~3mmの厚い色ガラスを被せ、緩やかな角度でカットするのが特徴です。そのため透明なガラスと色ガラスの境目には、美しいグラデーション(ぼかし)が表れます。その芸術性の高さ故に、海外への輸出品や大名への贈答品として使われた薩摩切子。江戸幕府第13代将軍徳川家定に嫁いだ、天璋院篤姫も嫁入り道具の1つとして携えていたといわれています。
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佐賀県の伝統工芸品、肥前びいどろ
佐賀県の重要無形文化財に指定されている「肥前びーどろ」は、江戸時代末期頃に作られ始めました。佐賀ガラスと呼ばれていましたが、昭和期に肥前びーどろの名で販売したものが定着したといわれています。型を使わず、人の息を吹き込んで作られる宙吹きガラスは、なめらかな艶と柔らかい曲線が特徴です。
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佐賀県の伝統工芸品、肥前吉田焼
佐賀・長崎にまたがる地域は「肥前」と呼ばれ、現在も多くの窯元が残る陶磁器の産地です。肥前吉田焼は有田焼の大外山エリアの吉田村を流れる羽口川の上流、鳴谷川の川底で、白く光る石を発見した(1577年)ことに起因しています。現在の佐賀県嬉野市の吉田にある小さなエリア。この地域は、江戸時代には宿場町として栄えた嬉野温泉という温泉地があり、名物の嬉野茶は歴史が古く、肥前吉田焼の茶器や急須と一緒に楽しむ観光客も多いです。
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大分県の伝統工芸品、別府竹細工
湯けむりただよう、日本有数の温泉地、大分県別府市。この別府市周辺に伝わる「別府竹細工」は、古くは『日本書紀』にも登場する、長い伝統を持った工芸技術です。温泉街を歩くと、小さな竹細工専門店が、今も点在し、籠やザルのほか、箸、しゃもじ、などの生活雑貨が売られています。何気ない一品の中に潜む、高度な技術は、使いやすいだけでなく、長く使い続けられる実用性の高い道具、まさに工芸品です。
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