【伝統工芸の旅】ガラスの街・小樽を巡る——歴史と職人の技に触れる
目次
1. 北前船が運んだ繁栄——小樽の歴史とニシン漁
2. 小樽運河と歴史的景観——往時を偲ぶ港町の魅力
3. なぜ小樽でガラス産業が発展したのか?
4. 北一硝子——小樽を代表するガラスブランドの歴史と魅力
5. 深川硝子工芸——歴史と工房見学の魅力
6. 小樽の街歩きを楽しむ——ガラス街道、三角市場、出抜小路、カフェ巡り
北前船が運んだ繁栄——小樽の歴史とニシン漁
小樽は、江戸時代から明治時代にかけて、北前船交易とニシン漁によって発展しました。北海道開拓の玄関口として、明治政府は物資供給基地として港湾整備を進め、明治13年には北海道初の鉄道「官営幌内鉄道」が開通しました。これにより、小樽は物流の要所として発展し、多くの移住者が集まり、活気ある港町が形成されました。
18世紀後半から本格化したニシン漁は、小樽の経済基盤を築きました。漁業の盛況により、「一起し千両」とも称され、商社や銀行が集まり、金融・商業の中心地として発展しました。穀物相場はロンドン市場に影響を与えるほどでした。
明治時代に北海道開拓が進む中で、北前船が生活物資や開拓資材を運び、小樽は商業港として基盤を確立しました。明治32年には開港場に指定され、国際貿易港としての地位を確立。港には木骨石造倉庫が並び、繁栄を象徴しました。
小樽の発展はニシン漁と北前船交易によるもので、これらが街並みや文化遺産に色濃く残っています。また、人気漫画『ゴールデンカムイ』でも、小樽はその時代の重要な都市として描かれています。
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JR小樽駅改札でて見上げるとガラスのランプが数多く配されていました。30年以上前、当時の駅長からの「駅の特色を出したい」という要望に応えて北一硝子さんが寄贈されたものだそう。
旧国鉄手宮線の跡地。官営幌内鉄道として北海道で最初に開通した鉄道(12月訪問したこの日は雪景色)
小樽運河と歴史的景観——往時を偲ぶ港町の魅力
小樽運河は、大正時代に港湾機能の拡充を目的として整備されました。それまで小樽港では、沖に停泊した船から小舟を使って荷揚げを行っていましたが、運河の建設により、船が直接倉庫の近くまで接岸できるようになり、荷役の効率が大幅に向上しました。こうして小樽は、北海道の物流拠点としてさらに発展し、商業・貿易の中心地となりました。
運河沿いには、明治から大正時代にかけて建設された石造りの倉庫群が並び、当時の繁栄を今に伝えています。これらの倉庫は、北前船をはじめとする船舶が運んできた物資を保管するために利用され、耐久性や防湿性に優れていることから長年にわたり活用されました。
しかし、時代の変化とともに港湾の形態が変わり、小樽運河は一時埋め立ての危機に直面しました。市民の保存運動により現在の形で維持され、歴史的景観を活かした観光地として再生されました。運河沿いの倉庫群はレストランやショップに改装され、多くの観光客が訪れる小樽の象徴的なエリアとなっています。
なぜ小樽でガラス産業が発展したのか?
小樽でガラス産業が発展した背景には、いくつかの重要な理由があります。まず、小樽は北海道の港町として栄え、19世紀末から20世紀初頭にかけて貿易が盛んに行われていました。外国から新しい技術や商品が入ってきたことで、ガラス製品が小樽でも作られるようになりました。
さらに、小樽でのガラス産業の始まりには、ガラス玉の製作があります。これは漁業で使われるもので、特にニシン漁において重要な役割を果たしていました。また、石油ランプも小樽で作られ、夜の灯りとして広く使われました。これらの需要に応じて、ガラス製品が生産されるようになったのです。
もう一つの重要な要素は、ガラス製浮き玉(ブイ)の製造です。ニシン漁が盛んだった時代、漁に使うためにガラスで作られた浮き玉が大量に生産されました。今でも、北海道の漁村ではこのガラス製浮き玉が使われており、浜辺に打ち上げられたり、ネットに吊るされている光景が見られるようです。(青森、津軽びいどろの北洋硝子も元はこのブイを製造していました)。
明治時代に入ると、日本は西洋の技術を積極的に取り入れる時代となりました。小樽でも、この時期に西洋からガラス製造の技術が導入されました。特に、西洋で発展したガラス吹きの技術が小樽のガラス職人によって取り入れられ、ガラス製品を大量に製造するための技術が確立されました。
ガラスを溶かして吹き竿で膨らませる技法で、これにより複雑な形のガラス製品を作ることができるようになりました。この技術の導入によって、小樽のガラス職人たちは、より精巧で多様なデザインを生み出すことが可能となり、ガラス製品の幅が広がりました。
さらに、職人たちは西洋の技術をそのまま取り入れるのではなく、自分たちの手で工夫を加え、独自のデザインや製法を模索しました。これにより、伝統的な日本の美意識や技術を生かした、個性的なガラス製品が生まれ、小樽独自のガラス工芸が形成されていったのです。このように、西洋の技術と日本の文化が融合することで、より魅力的なガラス製品が生まれ、今日の小樽ガラスの特色が築かれました。
小樽はその後、観光地としても有名になり、観光客に向けて「小樽ガラス」としてブランド化され、ガラス産業はさらに発展しました。現在でも小樽のガラス工芸は、地域の文化や伝統を大切にしながら、多くの人々に愛されています。
こうした歴史的な背景が、小樽でのガラス産業を形作り、今もその技術と美しさが受け継がれているのです。
人気漫画「ゴールデンカムイ」にも出てきた、旧百十三銀行小樽支店。今はアクセサリーショップが中心の「小樽浪漫館」。各種ガラス雑貨がたくさん販売されている。
グラスやアクセサリー、ランプ、ガラスペンまでありとあらゆるガラス細工の品々が小樽の街で販売されています。その中心的な存在が北一硝子。
北一硝子——小樽を代表するガラスブランドの歴史
北一硝子は北海道小樽市に本社を構えるガラス製品の製造・販売会社で、小樽を代表するブランドです。創業は明治34年(1901年)、浅原久吉が薩摩切子の技術を学び、石油ランプの製造を始めたことに遡ります。
当時、電気が普及しておらず、同社のランプは生活必需品として広く利用されました。明治43年には漁業用の浮き玉の製造も開始し、最盛期には北海道各地に工場を展開し、約400名の従業員を擁するまでに成長しました。
北一硝子三号館は、明治24年(1891年)に木村円吉が建設した木骨石張倉庫で、当初はニシン漁の加工品を保管するために使用されていました。ニシン漁の衰退後は用途が変わり、現在は北一硝子の店舗として活用され、百年以上経た今もその堅牢な姿を保っています。小樽は明治期に北海道開拓の玄関口として発展し、交易の拠点として栄えましたが、昭和20年の終戦後、経済の中心は札幌へと移り、「斜陽の街」と形容されるようになりました。それでも、明治・大正期の建築物や街並みが残され、歴史的価値の高い文化遺産として保存されています。北一硝子は、この貴重な歴史と調和するガラス製品を創出し、小樽の魅力を広く伝えています
深川硝子工芸——歴史と工房見学の魅力
創業は1906年で、当初はガラスビンの製造を行っていました。その後、昭和中期に業務転換し、ガラス食器や高級食器、生活雑貨など、多岐にわたるガラス製品を手がけるようになりました。特に「吹きガラス」の技術は代々受け継がれ、現在も深川硝子工芸の特徴として根付いています。
同社の製品は、工芸品としての美しさだけでなく、実用性も兼ね備えており、器や花瓶、ランプ、装飾品など様々な商品が製作されています。その特徴は、熟練した職人の手作業による細かい技術と、ガラスに込められた職人のこだわりにあります。
近年では、伝統を守りながらも新しいデザインや現代的なアプローチを取り入れた製品が登場し、時代に合った魅力的な商品が提供されています。深川硝子工芸は、物が溢れる現代だからこそ、手作業による唯一無二のものづくりを続けています。
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小樽の街歩きを楽しむ——ガラス街道「堺町通り」
小樽はガラス工芸の街であることは記載した通りですが、その中で「堺町通り」は伝統的なガラス製品やランプ、テーブルウェアが並ぶ「北一硝子三号館」など、数多くの店舗が立ち並んでいます。
この通りでは、職人の技を感じながら、地元の酒蔵による日本酒やワインも楽しめ、観光客にとって人気のエリアとなっています。また、堺町通りにはお土産物店や制作体験ができるお店が点在し、メルヘン交差点からウォール街へ続く約900メートルの通りは常に賑わっています。ここでは、小樽の思い出を持ち帰るのにぴったりなスポットを楽しむことができます。
小樽赤レンガ倉庫(夜の小雪でしたので幻想的でした)