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副島硝子

肥前びーどろ

佐賀で唯一の技術を受け継ぐ
重要無形文化財指定のガラス

古くから高いものづくりの技術を誇る佐賀県。その基礎になったのは、佐賀鍋島藩10代の鍋島直正が、寛永5(1852)年に設置した「精錬方」である。精錬方とは、今でいう理化学研究所。大砲鋳造など、藩を強くするための技術開発を目的とした施設だ。
精錬方には、薬剤や火薬の試験をするために必要だったガラスを製造する場所もあった。明治に入り、精錬方は藩から民間会社へ移行。当時必要不可欠だったランプ用のガラス製造を中心に、人々の暮らしに役立つガラス製品づくりが行われるようになった。そこから発展したのが「肥前びーどろ」の宙吹きガラスの器である。

 

時代に適応しつづけることで残された、
唯一無二の技術

精練方のガラス職人のひとりが、明治36(1903)年に副島硝子工業所を創業した副島源一郎だ。当初、ランプ用のガラスや酒を入れる燗瓶(かんびん)など、暮らしの道具を作り続けていたが、大量製造のガラスやプラスチックの登場、ランプ用ガラスの需要減などの影響で、次第に経営は右肩下がりになる。他の二人のガラス職人を祖とするガラス工場はすでに廃業。副島硝子にも危機がせまっていた。
「前社長だった父が、職人に『他の仕事を探してくれ』と言ったとき、工場長だった人が『やっと自分が作りたいものを作るだけの技術を習得したと思えるようになった。これまでの時間はなんだったんだ』とこぼしたんです。営業をやっていた私は、『なんとかしないと』と強く思いました」。現社長の副島太郎氏は、当時を振り返ってそう語る。「作るものを変えよう、と思いました。時代にあったものを作っていけば、求められるようになる、と」。
そのときから、昼は営業に出向き、夜はガラスづくりを学び、実験を繰り返す日々が続いた。「それまでの肥前びーどろは透明が主。だったら、今までなかったようなソーダガラスや色ガラスも取り入れてみよう、と思って、独学でいろいろやってみました」。

日本工芸堂/副島硝子

日本工芸堂/副島硝子

今や肥前びーどろを代表する色となった深い青や鮮やかな赤のガラスは、時代に適応していくための挑戦の中で生まれた輝きだといえるだろう。
変化は少しずつかもしれない。今は見えなくても、10年、20年と経っていくうちに、変化は進化として伝統技術をより高める一歩として現れる。「新しい技術を積極的に取り入れることが、伝統を守り、強くする」。それは、鍋島直正の精神にも似た、佐賀のものづくりの心なのかもしれない。

日本工芸堂/副島硝子

Buyer's Voice 代表・松澤斉之より 

博学で貪欲。
だからこそ生まれる新たな肥前びーどろの世界

佐賀に一カ所しか残っていない、県の重要無形文化財指定のガラス。素朴で繊細なガラス製品を見て、ぜひ、取り扱ってみたいと思った。どんな思いで、一つの技術を守ってこられたのか、それを聞きたくて、お会いした副島社長は、なんと、佐賀鍋島藩の歴史から語り始めた。
出島に渡来した長崎びーどろの技術が、なぜ、佐賀に伝わったのか。鍋島直正がなぜ、精錬方を作ろうとしたのか、明治維新で「薩長土肥」と言われた肥前が、いかに明治維新を牽引していたか。その広い知識は、工場見学をお願いしていた時間を忘れるほどだった。

日本工芸堂/副島硝子

貪欲な知識欲と、チャレンジ精神を併せ持った副島社長がいたことが、「副島硝子」を残し、「肥前びーどろ」の伝統を守ったのだろう。そんな話をしたら、副島社長はダーウィンの進化論の話をしてくれた。「生き残れるものは強いものでも賢いものでもなく、変われるものだ」。改めて、含蓄の深い言葉だ。
そんな副島社長が今取り組んでいるのは、金属とガラスの融合。真空蒸着という技法で生み出されたガラスは、見る位置で色合いを変えながら輝く不思議なガラスだった。
このガラスで何ができるのか。副島社長と共に、考えてみたいと思っている。

日本工芸堂/副島硝子
※副島社長(左から2人目)と取材・商談メンバー。

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